椅子を引く午前二時
午前二時になると、隣室で椅子を引く音がする。
ぎ、と短く床を擦り、それからキーボードが始まる。速く打つ時間と、長く止まる時間。ときどきプリンターが紙を送るような回転音も混じる。何をしている人なのか、奥村は知らない。
奥村の机にも、試験対策の本が積まれていた。
資格を取れば仕事の幅が広がると思って申し込んだ。最初の一週間は毎晩勉強したが、残業が続いた日からページを開かなくなった。受験日はあと十八日。間に合わない、と考えるたび、ますます手をつけられなかった。
窓には雨が当たり、除湿運転のエアコンが低く回っている。デスクライトは点けているのに、奥村はベッドで動画を眺めていた。画面の中では、勉強法を紹介する人が「毎日二時間」と明るく言っている。
二時になった。
隣の椅子は動かなかった。
いつもの音がないだけで、部屋が広くなりすぎたように感じた。奥村は動画を止め、壁へ耳を向けた。空調、雨、冷蔵庫。知らない人の机にも、座れない夜があるのだろうか。
机の端には受験票が伏せてあった。捨ててもいないし、目につくようにも置いていない。その中途半端さが、自分の意志の弱さのように見えていた。奥村は受験票を表へ返し、日付だけを確認した。二時十三分、ようやく、ぎ、と音がした。
続いて一度だけ咳払い。キーボードはすぐには始まらず、紙をめくる音が二回した。奥村は、その遅さに少し安心した。隣の人が毎晩完璧に始めていると、勝手に決めていただけだった。
ベッドを降り、机の椅子を引いた。こちらの床も、ぎ、と鳴った。
本を開き、最初に目に入った例題を一問だけ解く。答えは間違っていた。解説を一段落読み、赤いペンで印をつける。十五分にもならなかった。
壁の向こうでキーボードがようやく動き出す。
奥村は本を閉じた。二時間には遠く、試験に間に合う保証もない。それでも今日は、できなかった一日ではなく、一問だけ終えた夜になった。
椅子を机へ戻し、ライトを消す。隣のキー音は続いていたが、奥村はそれを置いて先に眠ることにした。