残高二千円の午後

 銀行のオンライン相談窓口が閉じるまで、あと十六分だった。

 越智泉花は、木戸佑弦とファミレスの端末を挟んで座っていた。画面には、二人で積み立てていた旅行資金の残高が表示されている。

 二千円。

「七十万円は、来月までに返す」

 佑弦が言った。

「返すって、前も聞いた」

「弟の店が潰れそうだった」

「だから勝手に送金した?」

「相談したら止めると思った」

「止めるかどうかも、私に決めさせなかった」

 二年前、二人はその金で北欧へ行くつもりだった。航空券を取る前日、残高が消えた。佑弦は弟へ貸していた。困っている家族を見捨てられなかった、と説明した。

 泉花が傷ついたのは旅行が消えたことではない。暗証番号を共有していた信頼が、彼にとって許可証だったことだ。

 別れたあとも返済だけは続き、今日が最後の入金日だった。振込名義の短い文字だけが、毎月一度、泉花の生活へ現れた。返事をしないまま、入金通知だけは消せなかった。

口座を解約するには、画面の確認ボタンを押せばいい。

「全額返したら終わりにするつもりだった」

「何を?」

「俺たちを。泉花がそのほうが安心すると思って」

「また決めた」

 窓口の残り時間が赤く点滅する。

 泉花はまだ佑弦を好きだった。だからこそ、好きと言えば七十万円で信頼が買い戻されたようで嫌だった。

「返してほしいもの、分かってる?」

「金じゃない」

「じゃあ何」

「相談する前の時間」

 佑弦は答えた。

「勝手に送る前、君に嫌われるかもしれなくても話す時間」

 泉花は画面を見た。二千円は、初めて二人で入れた金額だった。給料日前に千円ずつ出し、いつか遠くへ行こうと笑った。

「返す、じゃない」

「うん」

「なくした時間は返らない」

「うん」

「だから今度は、勝手に終わらせないで」

 相談員が接続した。解約理由を尋ねられ、泉花は口を開く。

「解約はしません。出金限度額と通知設定を変えたいです」

 手続きを終えると、泉花は佑弦の端末から共有していた暗証番号を消した。代わりに、毎月第一日曜の予定を二人のカレンダーへ入れた。残高二千円の口座を、彼女は閉じなかった。