段ボールの中のマグカップ
引っ越して三週間目の日曜、史佳は最後の段ボールを開けた。
中には、冬物のストール、説明書の束、見覚えのない青いマグカップが入っていた。前の部屋で一緒に暮らしていた二人のどちらかのものだと思う。縁に小さな欠けがあり、底には薄くコーヒーの跡が残っている。
史佳は元同居人のグループチャットに写真を送った。
〈これ、どっちの? うちに紛れてた〉
四十分たっても、既読はつかなかった。
段ボールを畳む手が止まり、史佳は青いカップを何度も裏返した。急ぎではない。捨てるつもりもない。それなのに返信がないと、二年間の共同生活まで、もう片づけられた側のものに思えた。新居では、自分が閉めた扉の音しか返ってこない。段ボールの影さえ、夜になると誰かが座っているように見えた。
洗面所から洗濯機の終了音が聞こえた。新居の洗濯機置き場は狭く、蓋を開けるたび棚にぶつかる。濡れたシーツを引き出すと、角が床をこすった。前の部屋では三人分の洗濯物がベランダに並び、誰かの靴下が誰かの部屋へ紛れた。
史佳はシーツを干し、コンビニで買ったミネストローネを鍋に移した。レシートにはスープと牛乳と食器用スポンジ。マグカップを返すために会う口実ができた、と少しだけ思っていた自分に気づく。
〈急がないよ〉
追加で送ろうとしてやめた。急いでいないことは、送信時刻からでも伝わる。相手が忙しいのか、通知を切っているのか、もうこのグループを見なくなったのかは分からない。
史佳は青いカップを丁寧に洗った。欠けた部分を指でなぞり、熱いスープを注ぐ。返事が来るまで使わないようにする必要もない。持ち主が分かれば洗って返せばいいし、分からなければ、しばらくここに置けばいい。
段ボールを平らに畳み、玄関の壁へ立てかける。全部の荷ほどきが終わった部屋で、青いカップだけが前の暮らしを残していた。
史佳は両手でそれを包んだ。誰のものか決まらない温かさを、今日は自分が借りることにした。