水槽は午前二時に歌う
午前二時、飛鳥井更紗が一人で水族館の大水槽を点検していると、清掃用イヤーマフから歌が流れた。
館内ネットワークは切れている。曲名も再生ボタンもなく、水中マイクが拾う泡だけが青い波形になっていた。
「息をしないで」
半年前、更紗の相棒だった潜水士は、この水槽で行方不明になった。監視映像には潜った姿があるのに、浮上する姿がない。最後の映像では、彼が水中カメラへ二本の指を立てていた。水槽も濾過槽も捜索されたが、遺体は出なかった。事故当夜、彼は酸素設備の不正改造を告発すると話していた。
Aメロで、ポンプの回転音が半音ずつ下がった。更紗は、二本が午前二時を示していたのだと気づき、水槽脇の制御盤を見る。毎夜二時、節電のため酸素供給が三分だけ停止する。その静かな時間に限り、底から別の周期の気泡が上がっていた。
「息をしないで」
二度目の囁きで、更紗は相棒が水底から呼んでいる錯覚に襲われた。潜水装備を着け、曲をイヤーマフへ流したまま水へ入る。サビが始まると、合成音声の高音に合わせ、岩壁の一部が震えた。装飾岩の裏に、人一人が通れる保守管がある。
更紗は中へ進んだ。管の先は地下の機械室へつながり、そこに相棒の酸素ボンベと録音端末が残されていた。事故ではない。館長が希少生物の密輸に水槽の搬入口を使い、気づいた相棒を保守管へ閉じ込めたのだ。
録音には、館長の声が入っていた。
〈水中マイクが拾う。息を止めろ〉
彼は呼吸音を消して隠れ、別の出口から脱出していた。生きている。証人保護下に入り、館長が再び密輸作業をする深夜だけ、ポンプ音を使って証拠の場所を更紗へ知らせた。
最後の一音と同時に機械室の扉が開き、捜査員が踏み込む。水槽上では館長が逃げようとしていた。
更紗のイヤーマフに、相棒の生声が届いた。
「息をしないで」
それは更紗に溺れろと命じる不吉な歌詞ではない。盗み聞きする水中マイクへ呼吸を渡さず、生きて逃げ切るための合図だった。