治癒術を休ませる白い部屋

治癒師ナフィの身体は、休み方を忘れていた。

指を切れば治癒光。肩が凝れば治癒光。眠って筋肉が緩むだけでも、身体が「損傷」と判断し、勝手に魔法を使う。朝には傷一つない代わりに、魔力が空になり、立つこともできない。

遠征前夜、彼女は宿《無花果》の受付で言った。

「回復できない部屋はありますか」

宿主アルバンは驚かず、一階の白い扉を開けた。壁も床も寝具も、染み一つない乳白色。魔石灯さえ置かれていない。

「この部屋では、魔法が働きません。一泊中、治癒術も加護も鑑定もなし。それが商品です」

「何かあったら」

「呼び鈴は魔法ではなく紐です」

ナフィは怖かった。治せない自分は役に立たない、と何年も教えられてきた。寝台へ入っても、指先に小さな光を作ろうとした。何も起きない。

暗闇で、背中が痛んだ。

次に肩が重くなり、足の裏がじんじんした。いつもなら光で消していた感覚だ。だが痛みは彼女を壊さず、波のように寄せては引いた。身体が自分で場所を直し、呼吸が深くなる。

呼び鈴の紐へ手を伸ばしかけたとき、ナフィは自分の呼吸がゆっくり戻っていることに気づいた。痛みは危険の鐘ではなく、「今日はここまで使った」という身体からの報告だった。彼女は初めて、その報告を消さずに聞いた。

治さなくても、眠りは来た。

夜の終わり、彼女は一度も紐を引かなかった。助けを拒んだのではない。自分の身体に、朝まで任せられたのだ。

朝、ナフィは寝台の上で大きく伸びた。肩には少し凝りが残っている。けれど魔力槽は満ち、手のひらに作った治癒光は、これまでで一番澄んでいた。

「完治していません」

「休息は完治競争ではありませんから」

その言葉に、ナフィは目を丸くし、それから声を立てて笑った。

宿代は銀貨二枚。彼女は八枚置き、毎週休息日の前夜に白い部屋を取った。

「仲間を治す前に、ここで私の術を休ませます」

杖を突かずに歩く背中が、朝の通りへ消える。

アルバンが白い寝具を整え、魔法のない呼び鈴の紐を確かめた直後、玄関の本物のベルが鳴った。