海の音を一グラム
月面都市へ渡る者は、地球の記憶を三割削除しなければならなかった。
青空、雨、土の匂い、重力に任せて眠る感覚。そうした記憶は月では強い禁断症状を起こす。望郷による自殺を防ぐため、移住者は出発前に「帰れない場所」を薄くする。
火野崎岳は、海洋観測員だった。月の氷床調査に選ばれたとき、故郷の海を削除対象に指定された。砂浜を走った少年時代も、嵐の夜に父を亡くしたことも、羽鳥アサへ告白した防波堤も消えた。
ただし岳は、七秒間の波音だけを残した。
映像でも意味記憶でもなく、単なる音響資料だと申告し、携帯端末へ忍ばせた。月面居住区で眠れない夜、イヤホンをつけて再生した。
ざあ、という音。
少し間を置いて、もう一度、ざあ。
最初の年、それを聞くと潮の匂いが鼻の奥に蘇った。二年目には、水の色を思い出せなくなった。五年目には、波という言葉と音が結びつかなくなった。それでも岳は毎晩七秒を聞いた。何を懐かしんでいるのか分からないまま、胸だけがゆるんだ。
アサから届く通信には、海を映さない約束があった。彼女は代わりに、食卓の湯気や、近所の猫や、買い替えた靴を送った。岳は彼女の顔を覚えていたが、二人がどこで愛し合ったのかは知らなかった。
十二年後、岳は地球へ帰還した。
着陸後の適応施設で、アサが迎えた。二人は抱き合ったが、岳の身体は地球の重さに耐えきれず、すぐ椅子へ沈んだ。
「海へ行く?」
アサが尋ねた。
岳は迷った。自分にとって海は、辞書に載った巨大な水域でしかない。だが、七秒間を毎晩守った理由を確かめたかった。
夕暮れの浜で、岳は初めて見るように水平線を見た。波が寄せた。
ざあ。
少し間を置いて、もう一度、ざあ。
端末と同じ音なのに、胸に浮かぶ景色はなかった。父も少年時代も、防波堤の告白も戻らない。ただ涙だけが出た。
「思い出した?」
アサに聞かれ、岳は首を振った。
「何も。でも、ずっと帰りたかったらしい」
アサは彼の手を握った。岳は七秒の音声を削除した。もう保存する必要はなかった。
記憶のない故郷は、目の前で新しい場所になった。
岳はその日から、毎朝海を見て、初めての波を一つずつ覚え直した。