海側の時刻
榎本遥香が潮目時計舗で見ていたのは、鉄道員用の古い懐中時計だった。
白い文字盤に太い黒数字。秒針は赤く、鎖の先には丸い留め金がついている。店の説明札には〈日差十五秒以内〉とだけあり、誰が使ったかは書かれていなかった。
遥香には、瀬戸内の小さな資料館から採用通知が届いている。古い航路図や港の記録を整理する仕事だ。大学で学びたかった分野で、募集は一名。けれど今の出版社を辞め、東京の部屋を引き払う必要がある。
母は「戻りたくなったらどうするの」と言い、同僚は「地方だと次がない」と言った。遥香自身も、片道切符を買う画面まで進んでは閉じている。返事の期限は今日だった。
今の仕事に強い不満はない。それがいちばん厄介だった。嫌いではない場所から出る決断には、説明しやすい傷がない。時計を買う理由より、残る理由のほうが上手に言えた。
「動きを見たいです」
店主は懐中時計をガラス台へ置き、店の標準時計と並べた。竜頭を引き、二本の秒針を十二へ合わせる。標準時計が時報を受けた瞬間、両方を動かした。
五分、十分。
遥香はその間に店内を見回さず、赤い秒針だけを追った。速くも遅くもならない。途中で迷う様子もなく、細かな目盛りを一つずつ越えていく。
十五分後、店主は差を確認し、説明札の〈十五秒以内〉を消した。新しい札へ〈本日測定 差二秒〉と書く。次に鎖の留め金を遥香の鞄の内ポケットへ掛け、時計を収めた。落とさない長さを測り、余った鎖を一輪だけ短くする。
会計を待ちながら、遥香は資料館へ承諾のメールを送った。続けて鉄道会社の画面を開き、海側の町までの指定席を選ぶ。往復ではなく片道を押した。
店主は領収書の時刻を確認し、赤い印を押した。印影は少し傾いたが、押し直さない。
店を出る前、遥香は懐中時計を取り出した。標準時計との誤差は、まだ二秒のままだった。
戻れるかどうかではなく、まず着く時刻が決まった。遥香は予約を確定し、鎖を鞄へ留め直した。