海風を鳴らす蓄音器

港町の古道具店〈遠い波〉では、壊れた蓄音器が潮騒を鳴らしていた。

店主シャンテが針を置いても円盤は回らない。修理屋にも見放され、買い取り値は薪一束分だった。それでも貝殻形の朝顔からは、ときおり知らない海の匂いが流れる。シャンテだけは、それを故障音ではなく記憶だと知っていた。

閉店前、人魚の歌い手ネリシェが青い外套を深くかぶって入ってきた。

「明夜、王立歌劇場で歌う。でも陸へ上がると、声が砂みたいに崩れるの」

水中では七つの音域を持つ彼女も、乾いた空気の中では囁くことしかできない。劇場側は話題作りのために招いたくせに、失敗すれば「人魚の歌は迷信だった」と契約を切るという。

「喉を変える魔道具は?」

「あなたを陸の歌い手にする品はありません」

シャンテは蓄音器の埃を払った。

「けれど、歌う場所のほうを海に近づけることはできます」

蓄音器は音ではなく、一度聞いた場所の空気を記録する古代品だった。シャンテが店の裏窓から海へ朝顔を向けると、円盤が逆に回り始める。波、塩気、冷たい湿度が銀色の溝へ吸い込まれた。

ネリシェが針を落とす。

狭い店内を海風が満たし、棚の値札が泡のように揺れた。彼女が一音発すると、窓硝子が震え、港の鐘が遠くで共鳴した。弱かった声ではない。深海から空へ伸びる、まっすぐな歌だった。

ネリシェは途中で歌を止めた。

「全部歌ったら、代金が払えなくなるほど価値が出そう」

「では続きは劇場で」

翌晩の公演後、彼女は真珠の髪飾りを外して店へ置いた。

「観客が立ったまま、三度も追加を求めた。契約も十公演に増えたわ」

蓄音器の値札を見て、さらに小さな真珠を二粒足す。

「一粒は品代。もう一粒は、私の声を直そうとしなかった代金」

シャンテは二粒目だけを返した。

「直っていないものから、修理代は取れません」

ネリシェは笑い、返された真珠を蓄音器の針飾りに結んだ。

海風を抱えた歌い手が去り、店には短い静寂が戻る。

やがて波音に重なって、二度目のドアベルが鳴った。