消毒中の扉
「消毒が終わるまで、扉に触れないで」
王立監獄の消毒係ヴァルダは、看守たちに嫌われるほど、その規則に厳しかった。
独房の取っ手を薬草水で拭き、床の血痕へ石灰を撒き、呪符の縁に生えた黴を細筆で落とす。囚人より恐ろしいのは、不潔な封印だというのが彼女の口癖だった。
若い看守レムは、深夜巡回のたびに消毒籠を持たされている。
「第九独房まで必要ですか。あそこは三重封印ですよ」
「だからです。強い封印ほど、手入れを怠る」
その言葉が終わる前に、第九独房の扉が内側へ膨らんだ。
鉄板を貫いて黒い角が現れ、続いて腕、肩、牙が押し出される。人の皮を着て投獄されていた上位魔族《獄喰い》が、黴で薄くなった呪符の継ぎ目を破ったのだ。
レムが警笛へ手を伸ばす。魔族の爪が先に動いた。
ヴァルダは噴霧器の細い管を抜き、一度だけ縦へ振った。
音は、濡れ布を絞ったときより小さかった。
獄喰いの角が根元から落ちる。同時に、床から天井まで伸びていた魔族の影が真二つに裂けた。肉体ではなく、影に隠していた本体を斬られたのだ。怪物は叫ぶ間もなく黒い泥へ崩れ、独房の敷居を一滴も越えなかった。
レムは古い軍記を思い出した。魔族の「本当の位置」だけを見抜く《影診断》。魔王戦争の女剣聖が使った秘剣で、その名もヴァルダだった。
彼女は驚く看守を放置し、黒泥へ消毒粉を振った。泡立った残骸を柄杓ですくい、封印廃棄壺へ入れる。破れた呪符を貼り直し、扉の膨らみを木槌で戻し、最後に取っ手を二度拭いた。
警笛は鳴らさなかった。報告書には「封印素材の劣化、交換済み」とだけ書く。
「剣聖が、なぜ消毒係を?」
「昔は国を一つ救った。翌年また汚れた。ここは拭いた分だけ、確実にきれいになる」
廊下の向こうでは囚人たちが寝息を立てたままだった。鉄扉の軋みも魔族の断末魔も、厚い石壁を越えてはいない。平穏は、誰にも気づかれないまま守られていた。
ヴァルダは新しい薬草水を布へ含ませた。
レムが扉へ近づくと、彼女は冒頭と同じ声で制した。
「消毒が終わるまで、扉に触れないで」