湯気一杯ぶんの春

《眼鏡の音声操作が誤作動して配信開始したっぽい》

《荒巻宗一、薬草屋が永久凍土層にいる時点で怪しい》

《凍獣フェンリルを茶で溶かすとかCMだろ》

 洞窟の反響が「記録して」を「配信して」と拾い、荒巻宗一の眼鏡から生中継が始まった。

 氷の谷には、探索隊三十人が白い像のように立っている。《凍獣フェンリル》は周囲の熱を食べ、火炎魔法さえ温度のない光へ変えていた。

 隊員たちの体温計は、救命限界の手前で横並びになっていた。急に温めれば凍った血管が破れ、弱い熱ならフェンリルに食われる。宗一は薬草茶を一口も飲まず、湯呑みの縁へ指を当てて、人が痛みなく戻れる温度を測った。

 宗一は戦闘装備を持たず、小さな薬缶と湯呑みだけを雪上へ置いた。薬缶の中では、来客用に淹れた薬草茶がまだ湯気を立てている。

《周辺温度、氷点下百二十度》

《茶の温度だけ六十三度で固定されてる》

《火力班の最大魔法でも一度も上がらなかったぞ》

「熱は強いほどいいわけではありません。飲める温度が、いちばん人を戻す」

 宗一は湯呑み一杯を、凍った地面へ一度だけ注いだ。

 薄い湯気が谷を渡った。

 雪は爆発的に溶けず、六十三度の春だけが静かに広がる。三十人の睫毛から霜が落ち、止まっていた胸が順に上下した。熱を食べようと飛び込んだフェンリルは、口から尾まで同じ温度に整えられ、氷の巨体を保てず、温かな水溜まりへ崩れた。

《全域温度がぴったり六十三度》

《技能《適温処方》、液体一杯を基準に対象範囲の温度を治療値へ統一》

《隊員三十名、低体温損傷なし》

《凍獣だけ生存可能温度を外れて討伐判定!》

 宗一は助かった隊員へ空の湯呑みを見せ、申し訳なさそうに笑った。

「お茶はなくなりました。店で淹れ直します」

《三十人分の命を一杯で温めた》

《薬草屋の試飲、効果範囲が谷》

《次の入荷日に並びます》

三十人の探索者は指を動かせるようになると、宗一の周りへ空の水筒を並べた。炎術師の隊長は、自分の最大火力より一杯の茶が人を救ったことを認めて頭を下げる。

《薬草茶は一般販売品と成分一致》

《谷の温度偏差、わずか〇・一度》

 宗一は謝罪を受ける代わりに、店で人数分を淹れ直す予約を取った。

 配信終了前、同時視聴者数が九十九万九千九百九十九から、一〇〇万へ変わった。

 眼鏡は無機質な声で告げた。

【公式救命配信として保存しました】