潮を刻む短刀
月のない夜、白砂の道だけが海から現れていた。
磯城甚八は交換卓へ短刀を置いた。黒漆の鞘に、細い傷が五本刻まれている。潮が砂道のどこまで戻るかを、一刻ごとに記した傷だった。
こちらが取り戻すのは若君・千寿丸。敵へ返すのは海砦の水先奉行、堀江主膳。双方の兵は砂州の両端で松明を掲げ、人質二人だけを中央へ出す。
敵将・那智景綱が短刀を見た。
「武器を置けとは言ったが、物差しを持てとは言っておらぬ」
「これは首を切る道具だ。物差しに見えるなら、そちらの首が長い」
甚八は鞘の一番下の傷へ濡れた親指を当てた。波音はまだ遠い。だが潮は速い。あと半刻で砂州の中央に細い水道ができる。
敵は交換後、騎馬でこちらを追うつもりだった。千寿丸は歩けるが、半年の牢で痩せている。主膳は丈夫な男で、敵陣へ戻ればすぐ馬へ乗れる。平らな砂州では逃げきれない。
甚八の策は、時間を使うことだけだった。
「人質の傷を検める」
「顔を見れば足りる」
「耳を一つ落とされておれば、値が違う」
千寿丸の縄を解かせ、袖をめくらせ、歯を見せさせる。次に主膳にも同じ検めを受けさせる。景綱は苛立ったが、拒めば虐待を隠していると取られる。
鞘の二本目まで波が来た。
「次は持ち物だ」
「小僧は何も持っておらぬ」
「名を持っている。本人か確かめる」
甚八は千寿丸へ、母の法名を問うた。若君は答えた。次に初陣で逃げた馬の名、乳母の左手の指の数、城井戸の底に落とした玩具。景綱が卓を拳で叩く。
「いつまでやる」
「偽物を返されるより短い」
三本目。波が短刀の鞘を濡らす。
千寿丸は甚八の意図を悟り、最後の問いへわざと答えを詰まらせた。敵兵がざわつく。甚八はもう一度問う。若君は違う答えを言い、首を振り、三度目に正す。
景綱が刀を抜いた。
「交換をやめるか」
「そちらが主膳を要らぬならな」
水先奉行は、敵がこの海を攻めるために必要な男だ。景綱は斬れない。
四本目の傷へ潮が触れた時、ようやく二人の縄が切られた。
千寿丸と主膳が砂州を歩き、中央ですれ違う。若君は走らない。走れば策を教える。こちらへ着くまで、弱ったふりで一歩ずつ進んだ。
主膳が敵陣へ入った途端、騎馬が前へ出る。
その蹄の前で、海が砂州を横切った。五本目の傷まで潮が満ち、細い水道が一息に深くなる。馬は嘶き、足を止めた。
甚八は千寿丸を抱えて城側の岩道へ上がった。
景綱の怒声が海越しに届く。
甚八は短刀を鞘ごと掲げた。
「潮門を開けろ」
砦の海門が、味方の舟へ向けて開き始めた。