火をつけなかった市長

十二歳の蔵本湊斗は、廃倉庫で擦った一本のマッチから火事を起こした。死者はいなかったが、消防士に抱えられて外へ出たときの煙と罪悪感は、一生消えなかった。湊斗は消防士になり、やがて現場を知る市長として防災を訴え続けた。

六十歳を前に、彼は過去修正AIへ申し込んだ。あのマッチを擦らなければ、夜中に焼ける倉庫の夢から解放されると思った。

更新後、湊斗は市庁舎の執務室にいた。肩書は同じ市長だったが、経歴は投資会社出身。消防はほぼ無人化され、手動車両は予算削減で廃棄されていた。

その瞬間、都市防災AIが停止した。蓄電施設から火が広がり、無人消防車は認証待ちで動かなかった。職員たちは避難経路をAIに尋ね続け、答えがないと立ち尽くした。

湊斗だけは、消えた人生で覚えた煙の読み方を知っていた。彼は非常斧で扉を壊し、庁舎の人々を階段へ導いた。展示用の旧式消防車を動かし、退職者を集め、河川ポンプを手作業でつないだ。地下保育室には煙が入り始めていた。湊斗は濡れた幕を子どもたちへ被せ、一人ずつ名前を呼ばせた。避難誘導AIが沈黙する中、人の声だけが人数を数えた。展示車の運転席では、忘れたはずの手順を身体が先に思い出した。

若い職員は「命令を待たなくていいんですか」と震えた。湊斗は「今は、間違っても動く方を選べ」と答えた。

夜明けまでに三つの区画を失った。だが病院は守れた。湊斗の左手には重い火傷が残った。

鎮火後、過去修正AIは取消を勧めた。元へ戻せば被害は消え、彼は再び消防士の経歴を持つ。ただし今回救った人々の記憶も、彼らが自分で動いた経験も消える。

湊斗は取消をしなかった。代わりに会見で、自分が過去を変えたことと、防災を効率だけで削った責任を公表し、市長を辞任した。

記者に、なぜマッチの記憶を消したかったのかと聞かれた。

「罪悪感を、人間性の故障だと思ったんです」

湊斗は包帯の手を見た。

「でも、痛みはときどき、逃げる方向ではなく、戻る場所を教える」

彼は再建された消防学校で、最年長の新人教官になった。