火星に行かなかった男
八月朔日穂高は、火星の通信室で地球の自分から着信を受けた。
量子航路AIが偶然、移住船へ乗らなかった世界と回線を開いたのだ。こちらの穂高は四十七歳、火星居住区の地質調査員。向こうの穂高は同じ年で、海辺の中学校教師だった。
画面の背後を、十六歳の少女が横切った。
「娘?」
「美緒。君にも、名前を考えたことはあっただろ」
乗船前に別れた恋人との子だった。穂高は火星の赤い窓を見た。自分が選ばなかった食卓、運動会、反抗期が一度に胸へ流れ込んだ。
向こうの穂高は、こちらの背後に広がる峡谷を見て息をのんだ。
「君は、本当に行ったんだな」
「後悔してる?」
「毎晩」
「俺もだ」
二人は笑えなかった。
回線は一週間だけ保つ。地球の穂高は娘を紹介した。少女は火星の父ではない男に、「星を選んだこと、恨んでないよ。私はそっちでは生まれてないから」と言った。
その優しさが、穂高には残酷だった。彼は回線の管理権を使い、地球側の家族映像をすべて保存しようとした。だが向こうの穂高が拒否した。
「娘を、君の失った人生の展示品にするな」
「じゃあ何を残せばいい」
「君の方を見ろ」
火星には、穂高と十年働いてきた仲間がいた。隣室には、養子縁組を申し込もうと何度も誘ってくれた看護師の恋人がいた。穂高は、地球に置いてきた可能性ばかりを家族と呼び、目の前の関係を仮住まいにしていた。
最終日、彼は少女の映像ではなく、向こうの自分が授業で使う海の音を一分だけ保存した。
翌月、穂高は恋人と養子審査室へ入った。火星生まれの少年が、赤土で汚れた靴を振りながら待っていた。
「海を見たことある?」と少年が聞いた。
「音だけ」
穂高は答えた。
「でも、いつか君と作りたい」
少年は保存された海の音を何度も聞き、「波って、機械が壊れる音みたい」と笑った。三人は居住区の空き区画に浅い水槽を作り、《浜辺》と名づけた。本物の海ではない。それでも穂高は、失った地球の代用品ではなく、ここで始まる家族の場所として水を満たした。