無記名の一億円

児童施設の慈善晩餐会で、古い背広の男性が受付に立っていた。榎並征一郎。招待状は持たず、「寄付者」とだけ書かれたメールを見せた。

運営局長は胸元の会員章を確かめ、一般席の隅を指した。

「こちらは一口百万円以上の支援者向けです。少額寄付はウェブからお願いします」

男性は封筒を差し出した。

「子どもたちの寮の修繕に使ってください」

「領収書の手間が増えるので、現金は困ります」

封筒は返された。男性は黙ってポケットへ戻し、会場の壁に貼られた建設計画を見ていた。

会場の中央では、施設の子どもたちが支援者との撮影のため同じ笑顔を何度も求められていた。局長はカメラが切れると彼らを舞台裏へ戻し、料理に触れないよう注意した。男性は一人だけ残った少年へ、食堂で一番困ることを尋ねた。少年は「窓がないから朝か夜か分からない」と答えた。男性は封筒の裏に、その言葉を一字ずつ書き留めた。

私は彼の皿へ余ったパンを置いた。男性は自分では食べず、舞台裏の子どもたちへ運んでよいか確認した。局長は写真に写らない行為には興味を示さなかった。私は施設出身の給仕係で、図面に食堂の窓が一つもないことを話した。

「夜でも外が見えない部屋でした。新しい寮には窓がほしいです」

男性は頷き、図面の余白に私の言葉を書いた。

壇上では局長が、大口支援者の名前を順に読み上げた。十万円、五十万円、三百万円。拍手の大きさまで寄付額に比例していた。

最後に銀行の信託部長が登壇した。

「本日、匿名希望の方から一億円の入金が確認されました。条件は、施設利用者を含む設計委員会の設置です」

会場がどよめく。局長は慌ててマイクを握った。

「ぜひ、その篤志家をご紹介ください」

信託部長は隅の席へ向き直り、古い背広の男性に一礼した。

「榎並征一郎様。当財団を二十年前に設立し、これまで匿名で総額十二億円を拠出された創設者です。本日の理事会で、臨時理事長に復帰されます」

榎並は封筒を壇上に置いた。

「まず、寄付者ではなく子どもの声を受け取れる運営か、採決しましょう」