玄関に残る二グラム

石動汐里の鍵束には、もう使えない鍵が一本ついていた。

古賀央雅がシンガポールへ赴任する直前まで住んでいた部屋の合鍵。建物は来月取り壊される。鍵を持っている意味は、とっくになくなっていた。それでも朝、鍵束をつかむたび、最初に指へ触れる位置へ付けていた。

海外便の集荷が来るまで十五分。央雅は汐里の玄関で、段ボールの封をしていた。

その鍵で入った部屋では、夜食のうどんを何度も作り、洗濯物をたたみ、喧嘩のあと別々の壁を見て眠った。部屋がなくなると聞いても、汐里は「そうなんだ」としか言えなかった。思い出を数えれば、欲しい未来まで口からこぼれそうだった。

「それも返して」

彼が鍵束を指す。

「もう使わないでしょ」

「使わないね」

汐里は笑い、鍵を外そうとした。

付き合い始めた頃、結婚も同居も望まないと伝えた。両親の離婚を見て、形を持てば壊れると思っていたからだ。今さら変わったと言えば、遠くへ行く彼を引き止めるための言葉に聞こえる。それが怖くて、好きの代わりに「いらない」を使い続けた。

「新しい部屋の鍵、送ろうか」

央雅が冗談めかして言う。

「いらない」

二度目は少し早口になった。

「そっか」

央雅は、それ以上勧めなかった。段ボールへ送り状を貼る。宛先の国名が太い文字で印刷されている。

呼び鈴が鳴った。集荷員だ。

「じゃあ、その古い鍵だけ」

央雅が手を差し出す。汐里は鍵を外した。小さな金属片は、手のひらに載せると驚くほど軽い。二グラムほどしかないのに、渡せば玄関から彼の痕跡がなくなる気がした。

「汐里?」

集荷員がもう一度ベルを鳴らす。央雅は箱を持ち上げた。

「いらないんじゃない」

「え?」

「使えなくても、持っていたい」

それだけ言って、汐里は鍵を差し出さなかった。

央雅はしばらく手を出したままにしていたが、やがて指を閉じた。

「新しいのは、住所が決まったら送る」

汐里は答えず、古い鍵をもう一度リングへ通した。金属同士が触れ、玄関に小さな音が鳴った。

集荷員へ渡された箱の中に、鍵は入らなかった。