留守電は四十秒
紗江が廉太の留守番電話へ吹き込めるのは、四十秒だった。
画面の上では、出版社から届いた契約書が開いている。長く書き続けてきた連載が書籍化される。ただし刊行まで半年、週末も打ち合わせが続く。廉太とは、その半年の間に入籍し、小さな式を挙げる予定だった。
昨夜、廉太は言った。
「また仕事が落ち着くまで待つの?」
責める声ではなかった。それが余計につらかった。
机には、二本のペンがある。黒は契約書用。金色は、式の招待状へ宛名を書くために買ったもの。どちらもまだインクが出る。
窓辺には、廉太と選んだ招待状の見本が立てかけてある。表紙の金箔は、夕方の光を受けて一度だけ強く光った。契約書の紙は薄く、指で持つと向こうの文字が透けた。重さと大切さは一致しなかった。
紗江は留守電を開始した。
「契約を受けます。式は延期したい。あなたに待ってほしいとは言わない」
十五秒。
そこで言葉が止まった。好きだから理解してほしい、と続ければ簡単だった。二十九歳まで積み上げた仕事だから、と説明することもできる。けれど理由を重ねるほど、廉太が失う半年を小さく扱ってしまう気がした。
「嫌なら、嫌だと言って。私は、それでも契約します」
二十七秒。
冷たい宣言に聞こえる。録音を消し、もっと柔らかく言い直したくなった。けれど優しい言葉で責任を薄めることはできない。
最後に、「ごめん」と入れようとしてやめた。謝罪が不要なのではない。謝るだけで許される形にしたくなかった。
残った八秒は、言えなかった言葉のために空いているようだった。紗江は録音を聞き直さず、契約書を手元へ引き寄せた。
三十二秒で送信した。
すぐに折り返しは来なかった。金色のペンの隣で、スマートフォンが暗くなる。
紗江は黒いペンを取り、契約書へ署名した。名字を書き終えたところで、廉太から着信が入る。画面には彼の名前と、応答、拒否の二つのボタン。
紗江はペンを置かなかった。署名の最後の一画を引いてから、応答を押した。