白い豆腐だけ
杉浦桃子は、恋人の作った麻婆豆腐から、白い豆腐だけを拾った。
唐辛子を入れすぎたらしく、赤い油の匂いが鼻を刺す。汁に染まっていない角を探して噛むと、豆腐は舌の上で静かに崩れ、そのあとから辛さが追いかけてきた。
「辛いの、平気だったよね」
恋人は壁にもたれ、桃子の食べ方を見ている。自分の分は盛っていない。
桃子は付き合い始めたころ、辛い料理が好きだと言った。正しくは、嫌いではないという程度だった。恋人が喜んだので、火鍋も激辛麺も平気な顔で食べた。
そのうち、平気だと言うものが増えた。毎晩の位置情報共有。異性の連絡先の削除。給料口座の残高を見せること。桃子が嫌そうな顔をすると、恋人は「隠し事がないなら平気でしょう」と言った。桃子の友人は一人ずつ連絡を減らし、最後には職場の昼休みだけが一人でいられる時間になった。
別れようとしたことは二度ある。そのたび、恋人は泣いて料理を作り、桃子が食べ終えるころには、傷つけた側と傷ついた側が入れ替わっていた。
先週、桃子は職場の近くに小さな部屋を借りた。保証人には、事情を聞かず印を押してくれた上司になってもらった。荷物は昼休みごとに少しずつ運んだ。今夜、この家へ戻ったのは鍵を返すためだった。玄関の靴も、洗面所の化粧品も、もう半分以上なくなっている。それでも恋人は気づかないふりをし、好物だと思っている料理を作った。
けれど、食卓に麻婆豆腐が置かれると、別れを切り出す前に食べなければならない気がした。料理を残せば、せっかく作ったのにと責められる。桃子はいつも、辛さも言葉も飲み込んで皿を空にした。
今日は白い豆腐を一個ずつ選んだ。赤く染まったものには触れない。六個食べたところで、皿の中央から白がなくなった。
残ったのは赤い汁と、崩れた肉だけだった。桃子はスプーンを置き、ポケットから鍵を出した。赤い汁の中央へ入らないよう、皿の乾いた縁へ置く。
「全部は平気じゃない」
恋人が何か言う前に、桃子は椅子を引いた。
最後に、汁の中へ半分沈んだ豆腐が一つ見えた。以前なら救い出して食べただろう。桃子はそれを残した。食べられる部分があることと、皿ごと引き受けることは同じではなかった。
玄関を閉める直前、背後でスプーンの触れる音がした。食べ残しを責める声は追ってこなかった。エレベーターの鏡には、泣いても謝ってもいない自分が映っていた。
桃子は振り返らず、新しい部屋の鍵だけを握った。白い豆腐を全部救わなかったことを、後悔しないように。