百年宿の予約帳
海辺の老舗旅館「汐路庵」が黒字へ戻ると、新堂篤成部長は再生事例の講演に呼ばれた。
「古い慣習を捨て、私が顧客体験を刷新しました」
実際に客室を一室ずつ回り、常連客の好みをデータ化したのは立花杏緒だった。新堂は、手書きの手紙など非効率だと止めていた。それでも講演資料には、新堂が百年宿を救ったと書かれ、杏緒は会場受付を命じられた。
講演後、汐路庵の女将、葦原邦枝が古い予約帳を持って壇上へ上がった。
「新堂さん、三十二頁のお客様へ、今年は何を用意しますか」
新堂は笑顔で帳面をめくった。
「上得意様ですから、最高級の料理を」
「その方は魚を召し上がれません」
「では肉料理を」
「噛む力が弱く、固形物も難しい」
会場がざわめく。邦枝は受付の杏緒を呼んだ。
杏緒は答えた。三十二頁の客は、亡夫との思い出で毎年同じ日に来る。料理は昆布だしの茶碗蒸し、部屋には海が見える低い椅子、枕元には夫が好きだった山茶花を一輪。昨年の手紙には、今年が最後の旅行になるかもしれないとあった。
邦枝は静かに頷いた。
「だから、私はこの人に旅館を任せたいのです」
新堂が慌てて口を挟んだ。
「立花は私の再生方針を実行した担当者にすぎません」
邦枝は予約帳の末尾を開いた。そこには杏緒が書いた改善案と、客から届いた百二十六通の礼状が綴じられている。新堂の名があるのは、宿泊単価を上げろという一枚の社内文書だけだった。
「私たちが契約したのは会社の看板ではありません。杏緒さんが客を覚えているから、御社へ任せたのです」
邦枝は五年間の運営更新契約を社長へ示した。
「条件は、立花杏緒さんを総支配人として常駐させること。新堂さんが上司として口を出すなら、今日で契約を終えます」
社長が壇上で杏緒へ辞令を渡した。
「総支配人として、汐路庵を頼む」
杏緒が受け取ると、邦枝は予約帳の次の頁へ彼女の名を書いた。新堂が自分の手柄として語った百年宿に、彼の予約だけはもう残っていなかった。