知っている道を尋ねる
菫は人に道を聞くのが苦手だった。地図アプリがある時代に尋ねるのは、準備不足を見せることだと思っていた。仕事でも同じで、分からない箇所は夜まで残って調べ、相談する前に自力で答えを作った。結果として締切に遅れそうになることはあっても、助けを求めた記憶はほとんどない。以前、独力で直したつもりの数字を翌朝訂正され、「先に聞けば十分だった」と言われたことも、失敗より恥ずかしく覚えていた。
出張帰りの駅で、菫は奇妙な旅人に声をかけられた。旅人は胸に「迷子案内人」と書いた札を下げ、駅の構内図を逆さに持っている。帽子には東西南北の代わりに「たぶん」「おそらく」「気のせい」「聞いてみる」と書かれた風見鶏が回っていた。
「中央口はどちらでしょう」
菫はすぐ左を指した。毎週使う駅だ。すると旅人は、同じ質問をもう一度した。
「あなたも、誰かに聞いてください」
「知っています」
「知っている道ほど、聞く練習に向いています」
旅人は百円硬貨を一枚渡した。案内のお礼だという。菫が返そうと顔を上げたとき、旅人は構内図を見たまま反対方向へ歩き出していた。
菫は中央口へ向かった。聞く必要などない。改札を出れば、会社の最寄り駅まで一本だ。
電車の中で、上司からチャットが届いた。「例の見積もり、今日中に確定できそう?」。菫は三日間、一か所だけ計算根拠が分からずにいた。前任者の資料を読み直しても答えは出ない。数字を仮置きすれば形だけは整うが、そのまま出すほうが怖い。けれど「確認中です」と返せば、能力がないと思われそうだった。
ポケットの硬貨を握る。知っている道を聞く。それは無駄で、少し恥ずかしく、失敗しても何も失わない練習だ。
乗換駅で降りた菫は、いつもの出口表示の下にいる駅員へ近づいた。
「すみません、中央口はどちらですか」
駅員は丁寧に教えてくれた。笑いも、呆れもしなかった。菫の知らなさは、誰の迷惑にもならなかった。菫は礼を言い、百円硬貨を券売機横の募金箱へ入れた。
ホームに戻る前にスマートフォンを開く。今度は上司ではなく、前任者の名前を選んだ。
菫は「見積もりの一行だけ、五分相談させてください」と送信した。