祖父の声を放送しない
春日井凌我が終戦放送の原盤を再生すると、七十八年前の放送室へ一文を送れる入力欄が現れた。
〈針を上げるな。〉
祖父は、妨害を受けた放送を最後まで流した技師として教科書に載っている。記念館の閉鎖を防ぐには、今日の鑑定会で祖父の声と署名を本物だと証明しなければならない。それが成功条件だった。
凌我が一文を送ると、原盤の傷が一本消えた。再生された音声には、若い祖父の声が入っている。
『針を上げるな。放送を続けろ』
だが署名部分は雑音に埋もれた。鑑定は保留。原盤が巻き戻り、また一文を送れる。
二周目は「記録簿へ当直者名を書け」と送った。四周目は停電時刻を伝えた。古い真鍮の鉛筆削りが机で震えるたび、記録は少しずつ鮮明になった。
七周目、祖父の署名と声が完全に一致した。記念館は存続し、凌我には資料館長の内定が出た。
確定前、修復された放送室の会話が続いた。
『針を上げるな』と言ったのは祖父ではなかった。別の技師が命じ、祖父は恐怖で廊下へ逃げていた。放送後、戻ってきた祖父が記録簿の当直者名を消し、自分の名を書いた。凌我が過去へ送った文章を聞いた祖父は、それを自分の台詞として使ったのだ。
成功した歴史を固定する欄に、最初の一文が残っている。
〈針を上げるな。〉
壁には祖父の勲章、凌我の奨学金証書、同じ姓が並ぶ系譜。全部がその一文から生まれていた。
凌我は真鍮の鉛筆削りを回し、短くなった鉛筆で別の文を打った。
〈放送後の記録簿には、命令した本当の当直者の名を書け。〉
原盤が一度だけ逆回転した。
鑑定会の朝、記念館の看板から祖父の名が消えていた。勲章も奨学金もなく、凌我は館長候補ではなく臨時整理員だった。家族は歴史を「変えた」と彼を責めたが、周回の記憶は彼にしかない。
閉館後、凌我は無名の技師の記録を新しい箱へ移した。原盤を再生しても、過去への入力欄は出ない。
最後まで放送された声に、春日井という姓は一度もなかった。それでも音は、嘘より長く残った。