禁止する、を消さない

医療翻訳会社で、弓削汐音は納品ボタンの上から手を離した。

翌日から産休に入る宇賀神文乃が、最後に引き継いだ人工呼吸器の取扱説明書だった。締切は午後五時。残りは一行の確認だけで、顧客もすでに待っている。

原文は〈Do not use unless the alarm test has been completed.〉。訳文には〈警報試験が完了していない場合を除き、使用してください〉とあった。否定が二重になり、試験前の使用を勧める文になっている。

文乃は顔色を変えた。「自動翻訳の後、私が見たはず」と言い、すぐ自分で直そうとした。営業は「一行なら黙って差し替えて送ればいい」と急かした。

汐音は納品を止め、同じ構文を全文検索した。類似の注意文が六か所あり、三か所で否定の向きが逆転している。原因は、今月導入された翻訳メモリが〈unless〉を一律に〈場合を除き〉へ置き換える設定だった。

汐音は後輩の翻訳者へ修正文を見せ、「合っているか聞かれても、私の文を信じなくていい。日本語から英語へ戻して意味が同じか見て」と頼んだ。二人で逆翻訳し、六か所を直した。納品は十八分遅れたが、顧客は全版の再確認を依頼してきた。

顧客からは、遅延の理由を記録として残してほしいと返信が来た。汐音は誤訳箇所だけでなく、見つけた方法と再発防止を書いた。文乃が「私の確認不足」と一人称で謝罪文を打つのを止め、設定変更後に誰が読んでも起こり得た工程上の問題だと書き換えた。

文乃は、自宅で使っていたという用語集を汐音へ送ろうとした。ファイル名は〈文乃だけ確認〉だった。

「これがあれば、たぶん回せる」

汐音は受信を断り、用語集を共有資産へ移す手続きをした。営業からは、文乃が担当していた三案件を同じ単価で引き受けてほしいと連絡が来た。レビュー時間は見積に入っていない。

汐音は次の見積書に〈否定表現の相互確認・一時間〉を追加した。値引き欄は空白にし、納期も一日延ばす。

その条件で、三案件のうち一件だけを受注する返信を送った。