笑い声のレコード
喫茶「蓄音機」が店を閉じる夜、戸祭絹枝は、最後の客として残った。
五十年前、絹枝はここで働いていた。
注文を三つ同時に忘れ、クリームソーダを倒し、常連だった青年に毎週からかわれた。その青年と結婚し、四十六年暮らし、去年見送った。
店までなくなると聞き、閉店後の片づけを手伝いに来たのだった。
棚の奥から、ラベルのない黒いレコードが出てきた。
「これ、昔からありました?」
若い店主が尋ねる。
絹枝は首を振った。けれど盤面の細い傷に、なぜか見覚えがあった。
古い蓄音機へ針を落とす。
音楽は流れなかった。
しばらく砂嵐のような音が続き、それから、誰かが笑った。
低く、途中で咳き込み、最後に鼻をすする笑い方。
絹枝の手から布巾が落ちた。
夫の笑い声だった。
写真は何百枚も残っている。手紙も、腕時計も、読みかけの推理小説もある。
なのに声だけは、思い出そうとするほど遠ざかった。録音嫌いの人で、動画にも背を向けた。亡くなって半年ほどで、絹枝は夫がどんな声で自分の名を呼んだか、わからなくなっていた。
忘れたことを、誰にも言えなかった。
レコードの中で、夫はまだ笑っている。
何がそんなにおかしいのか。
絹枝は目を閉じた。
忘れていた場面が戻った。
結婚前、閉店後の店で二人きりになり、絹枝が砂糖と塩を取り違えた。夫は一口飲んでむせ、怒る代わりに笑い出した。絹枝も笑った。店主に叱られるまで、二人で塩辛いコーヒーを飲んだ。
するとレコードから、もう一つ笑い声が重なった。
高く、息を吸うたび笛のようになる。
若い頃の絹枝自身だった。
「私、こんなふうに笑ってたのね」
若い店主は何も聞こえない顔で、針が進むのを見ていた。
絹枝は泣きながら笑った。今の笑い方も、昔と同じく途中で笛になった。
盤が終わると、店内は静かになった。
絹枝はレコードを持ち帰らなかった。
忘れたくないものを、物に預けすぎるのはやめようと思った。
翌朝、店の看板が外された。
絹枝は家で、夫の写真に向かって塩を入れたコーヒーを供えた。
一口飲んだつもりで顔をしかめ、声を出して笑った。
その笑い声の中に、夫の低い咳が、ほんの少し混じって聞こえた。