紙コップの向かい

夫は死んでからも、毎週火曜、私の向かいに紙コップを置いた。

カウンセリング室は白く、窓の外にはいつも同じ雲が浮かんでいる。夫は二つのコップにコーヒーを注ぎ、自分だけが飲んだ。私のコップからも湯気は立つのに、顔へ触れずに消えた。

「今週は何を話す?」

「事故の日のこと」

またか、と私は思った。

自動運転車が中央分離帯へ突っ込んだ夜、助手席にいた夫は助かり、運転席の私は死んだ――そう説明されていた。けれど夫は、自分が死者であるかのように青白く、会うたび少しずつ痩せていく。

「君は最後に何を見た?」

「赤い信号」

「ほかには?」

「あなたの手」

「僕はハンドルに触れていない」

同じ質問を何度もされると、頭の奥で小さな音が鳴り、会話が最初へ戻った。夫が「海」と言うと、私は新婚旅行を思い出す。夫は毎週違う豆を選んだが、私には香りの差が分からない。コップへ指を入れても熱くなく、液面には夫の顔しか映らなかった。「六月」と言うと、記憶は結婚式で止まる。それより先を辿ろうとすると、白いノイズが視界を覆った。

壁の鏡の向こうで、誰かが数字を読み上げている。

《反応安定。情動再生率、八十二パーセント》

「今の声、聞こえた?」

夫は首を振った。紙コップを握る指が震えている。

「君は、僕を恨んでる?」

「なぜ?」

「事故の直前、僕が手動運転へ切り替えた」

私は怒ろうとした。しかし怒り方を思い出せない。代わりに、用意された言葉が口から出た。

「あなたを許します」

夫は泣いた。彼がカウンセリングへ来る目的は、真相を知ることではなく、この一言を聞くことなのだとわかった。

終了音が鳴る。夫は飲み残したコップを二つ持って立ち上がった。私の前の机も、窓も、同じ雲も薄くなる。

鏡の向こうの技師が告げた。

「故人記憶モデル、停止します。ご主人、次回も奥様を再生しますか」

夫は頷いた。彼が退出すると、私の紙コップだけが机に残った。

《故人記憶モデルを停止》

その文字が視界を覆い、火曜日が暗転した。