細い溝の夕飯
恋人の弁当箱は、蓋を開ける前からカレーの匂いがした。
余命を告げられて家へ戻った桂木美晴は、それを流しの前で分解した。
流しに置かれた黒い二段弁当は、昨夜のカレーの匂いが残っている。恋人は朝、水ですすいだだけで出勤したらしい。蓋の裏には細いゴムのパッキンがあり、端だけ黄色く染まっていた。鼻を近づけなくても、甘い香辛料の匂いがした。
病院からの帰り道、美晴は何を食べたいか考えたが、何も浮かばなかった。駅の惣菜売り場を一周して何も買わず、家に着いた。弁当箱を見た瞬間、今夜やることだけは決まった。パッキンを外して洗う。前から「そこを取らないと匂いが残る」と言いながら、二人とも面倒で放っていた。
爪を溝へ入れても、ゴムは動かない。無理に引くと伸びそうだった。竹串を使うと傷がつきそうで、説明書を探した。食器棚の上の保証書袋に、折りたたまれた紙があった。蓋の隅にある小さなくぼみへ、指を掛けると書いてある。
言われたとおりに押すと、パッキンは拍子抜けするほど簡単に外れた。
ボウルへぬるま湯と重曹を入れ、ゴムを沈める。浮いてくるので小皿を一枚かぶせた。弁当箱本体はスポンジで洗い、溝を綿棒でなぞった。黄色い油が細い線になって取れる。見えない場所ほど汚れる、と恋人が聞けば、仕事の愚痴に結びつけそうだった。
スマートフォンが震えた。
〈診察どうだった? 今日は早く帰る〉
美晴は濡れた指をタオルで拭き、〈弁当箱ばらしてる〉と返した。
〈どうして今〉
〈今までやってなかったから〉
既読がついたあと、電話は来なかった。恋人は、美晴が言葉を選んでいるときだけ待つのが上手い。
十分置き、重曹水からパッキンを上げ、流水ですすぐ。指で伸ばし、亀裂がないことも確かめた。匂いを確かめると、カレーではなくゴムの匂いしかしない。布巾の上で水を取り、蓋の溝へはめる。途中で一か所ねじれ、美晴は最初からやり直した。
親指で一周押す。細いゴムが、どこも浮かずに溝へ収まった。蓋を閉じると、乾いた音が一度だけした。