緊急連絡先の鉛筆

電話台の引き出しから、黒い住所録が出てきた。

冬実が開くと、最初のページに自分の携帯番号が鉛筆で大きく書かれていた。横には「緊急」と二重線。病院、電気店、町内会、宅配弁当。どのページにも、父の字で「何かあれば冬実」と添えてある。

「これ、新しい部屋にも持っていく?」

冬実が聞くと、父は食卓で乾電池を分けながら頷いた。

「当然だ。番号が分からなくなる」

「私の番号じゃなくて、ほかの連絡先」

「お前に電話すれば済む」

冬実は住所録を閉じた。表紙の角が、長く握られたせいで丸くなっている。

父は一人暮らし用の部屋へ移る。冷蔵庫も、布団も、薬の受け取りも、冬実が業者を探した。頼まれるたび「今回だけ」と思ったが、住所録には最初から今回も次回もなかった。

「済まないこともあるよ」

「娘だろう」

「娘だから、全部の窓口になるわけじゃない」

父は乾電池を机へ置いた。

「じゃあ、誰に頼めばいい」

その問いだけは、責める声ではなかった。

冬実は用意していた紙を住所録の隣へ置いた。管理人、訪問診療、配食サービス、地域包括支援センター。番号は太いペンで書き、用途ごとに色を分けてある。

「まずここ。私に電話するのは、話したいときと、本当に選べないとき」

「本当に、の基準は?」

「迷ったら、最初に管理人さんへ聞いて」

父は紙を持ち上げ、目を細めた。

「他人に家のことを話すのか」

「助けてもらう人を、家族だけにしないの」

冬実は住所録をもう一度開いた。鉛筆の自分の番号を消しゴムで消す。強く書かれていたので、紙には溝が残った。その上に、ペンではなく細い鉛筆で番号を書き直した。横には「娘・夜八時まで」と添える。

父がそれを読み、「時間まで書くのか」と言った。

「書くよ。夜中は救急か管理人さん」

「寂しい住所録だな」

「使える住所録だよ」

父はしばらく黙り、配食サービスの欄に自分で「昼」と書き足した。字は少し震えていたが、冬実の名前は書かなかった。

片づけの最後に、父は黒い住所録を新居用の鞄へ入れた。冬実は消しゴムを持ち帰る箱へ戻そうとして、父の前へ置いた。

「変更があったら、自分で直して」

父は消しゴムを一度転がし、住所録の上に載せた。

紙に残った溝は消えなかった。それでも、次に書く文字の場所は空いていた。