署名より十九分遅い招待
再使用型注射器の特許買収会議で、志岐野航平は買い手企業の法務補助として電子契約の確認をしていた。売り手は、退職した設計者から完全な権利譲渡を受けたと主張している。
譲渡契約には設計者・石和の電子署名があり、時刻は七月十一日午後一時五十二分。内容は明快で、対価も支払済みだった。
航平は監査ログを一行ずつ追った。署名依頼メールが石和へ送られたのは午後二時十一分。招待される十九分前に署名することはできない。
売り手の社長は、最初の招待メールが消えただけだと言った。
航平は電子契約会社の発行証明を示した。文書IDは一つで、最初の送信が二時十一分。削除された履歴はない。しかも一時五十二分の署名に使われた証明書は、石和ではなく売り手社長のアカウントへ発行されていた。
「代理署名の委任状はありますか」
出てきた委任状の日付は七月十二日。翌日だった。
さらに石和本人から届いた回答書には、「譲渡契約を見たことも、対価を受け取ったこともない」と自筆署名がある。振込先とされた口座も、石和ではなく売り手の関連会社名義だった。
社長は買収責任者へ、製品上市が遅れれば競合に負けると訴えた。
航平は買収契約の保証条項を指した。
「急ぐほど、十九分を無視する損失は大きくなります」
彼は法務部長の印鑑ケースをそっと閉じた。権利のない特許を買えば、製造差止めまであり得る。
買収責任者は署名用タブレットを伏せた。
「石和氏本人と話すまで、承認しない」
航平の部長は、売り手との関係を壊せば法務の責任になると囁いた。航平はむしろ、偽造を知りながら承認した記録の方が責任になると答え、監査ログへ自分の確認署名を付けた。補助職の署名でも、付けた時刻と誰が見たかは電子証明書に残る。
石和の退職日以降、売り手側が本人のメールへ接続した形跡もなかった。
画面には午後一時五十二分の署名が残ったままだった。しかし、その署名へ続く招待は十九分後にしか存在しなかった。