肖像の裏の退職日
篠垣千景は、薄明写真室へ一枚の肖像を持ってきた。大叔母の遺品に混じっていた、名刺ほどの写真だった。
黒いコートを着た若い女が、駅前らしい場所で正面を向いている。笑顔でも晴れ着でもないため、なぜ写真館で台紙に貼ったのか分からなかった。台紙が剥がれかけているので直してもらう、それだけのつもりだった。
店主が写真を外すと、裏面に鉛筆書きが現れた。
〈会社を辞めた日 二十六歳〉
千景も二十六歳だった。広告会社で四年働き、半年前から転職先を探している。先週、地域出版社から内定をもらった。それでも退職届を出せずにいた。繁忙期が終わってから、後輩が育ってから、上司の機嫌がいい日に。理由を増やすたび、内定承諾の期限だけが近づいた。
写真の女は、辞めたあと成功したのかもしれないし、後悔したのかもしれない。遺品の中には答えがなかった。あるのは、辞めた日をわざわざ写し、年齢まで書いた事実だけだった。
店主は新しい台紙を三種類出した。金縁、花模様、飾りのない灰色。千景が迷っていると、店主は裏書きが隠れないよう、灰色の台紙に透明な背面窓をつけた。表からは顔、裏返せば日付が見える。
「表だけでいいです」と千景は一度言った。
店主は手を止め、透明窓を外さずに待った。押しつけるでも、説得するでもない。ただ、裏面も写真の一部として扱っていた。
「やっぱり、そのままで」
店主は窓の縁を細いテープで留めた。会計票には〈台紙交換〉とだけ打ち、記念日の名目を尋ねなかった。包装も熨斗を使わず、何度でも裏返せる紙ケースに入れる。
千景は店を出る前に、会社の人事システムを開いた。退職申請の理由欄へ、長い事情を書きかけて消す。
〈転職のため〉
それだけを残し、希望日を入力した。送信すると、確認画面に今日の日付が出た。
大叔母と同じ年齢で辞めることに意味はない。写真はお守りでも予言でもない。それでも、自分の決めた日を後から裏返して見られるようにしておきたかった。
千景はスマートフォンの画面を一枚撮った。笑顔は写っていなかった。