苗字のない部屋

母に見つからないため、私たちは苗字を捨てた。

賃貸契約では妹の未央が旧姓を使い、私は紫乃という名だけで暮らした。銀行も携帯電話も、郵便物も、表札も未央名義。私宛ての荷物さえ妹の名で受け取り、宅配員に本人確認を求められると、未央は体調不良だと寝室へ下がらせた。母は私の名前を先に探すはずだから、それが一番安全だった。

未央は書類が苦手だった。母に何度も署名を強要されたせいで、ペンを持つと息が乱れる。だから契約書は私が書いた。最初は妹の横で一画ずつ確認したが、やがて時間がかかるので印鑑も私が持つようになった。未央は『自分の名前が減っていくみたい』と言った。私は安全になっている証拠だと答えた。役所の窓口でも、未央が迷う前に答えた。

「生年月日は?」

職員に聞かれると、私は自分のものより早く妹の数字を言えた。

二年目、未央宛てに督促状が届いた。消費者金融三社、合計百八十万円。私は母の仕業だと言った。昔、保険証をコピーされていたからだ。

「でも契約住所、ここだよ」

未央が封筒を裏返した。

私は、母が郵便を転送したのだろうと説明した。未央は何も言わず、契約書の署名を見つめた。

右上がりの「未」の最後を、私は必ず短く跳ねる。妹は幼いころから、最後を丸く止める。

翌日、未央は支援員と銀行へ行った。私は同行を断られた。帰宅した妹は、凍結手続きをしたこと、警察へ相談したこと、新しい部屋を契約したことを告げた。

「お母さんに見つかるよ」

「見つけたのは、お姉ちゃんだった」

意味が分からなかった。私は妹の名前を借りただけだ。働けない間の生活費も、二人のために使った。借入金の一部で買った鞄も講座代も、私が自立すれば妹を守れるのだから共同の出費だった。家族なら同じ財布で当然なのに。

未央が出ていったあと、机には接近禁止命令の申立書が残っていた。申立人の欄は妹の丸い字で埋まり、相手方だけ空白だった。

私はペンを取り、いつもの跳ねる字で〈未央〉と練習した。