行き先を現在形で
二十六歳の羽田章乃は、高速バスの予約画面を二つ開いていた。一つは実家のある町行き。もう一つは、ずっと受けたかった製菓研修が開かれる金沢行きだった。
母からは、叔父の店を手伝ってほしいと言われている。期間は半年、その後は好きにすればいいという。けれど家族の「半年」が何年にも延びることを、祖母の介護や従姉の手伝いで知っていた。断れば薄情だと思われる。研修は来年もあるかもしれない。章乃は子どものころから菓子を作るのが好きだったが、家族には趣味だと言ってきた。製菓の仕事へ移りたいと話せば、今の安定した会社をなぜ辞めるのかと聞かれる。その質問に答えられるほど立派な計画ができるまで、申込書を毎年閉じていた。そう考え、実家行きの決済ボタンへ指を置いた。
バスターミナルの外では、網代岳人がハーモニカを吹いていた。古い旅行鞄に座り、到着するバスではなく、出ていくバスの後ろ姿へ音を送っている。便が発つたび旋律を少し変え、戻ってくる人には吹かなかった。章乃には、その偏りが妙に気になった。出発する背中にだけ届く曲なら、今の自分が聞いてよいのか迷った。
章乃が二つの画面を見比べていると、網代が聞いた。
「行き先は、過去形で買うものですか」
「どういう意味ですか」
「切符を買う前に、行きたい場所を現在形で一度だけ言ってみてください」
それ以上は説明せず、短い曲を吹いた。章乃は小声で「金沢へ行きたい」と言った。願望の形ではまだ逃げ道がある気がした。現在形ならどう言うのか。バスの案内放送が流れ、実家方面の乗車が始まる。
母から〈席、取れた?〉と届いた。章乃は返信欄を開く。家族へ説明できる理由を探すと、研修の価値が急に小さく見える。ハーモニカの音は細いが、発車音に消えず続いていた。
窓口の係員が「次の方」と呼ぶ。章乃は二つの画面を閉じ、窓口へ進んだ。
「金沢へ行きます。今夜の便を一枚ください」
言い切ってから、彼女は実家行きではない乗り場の番号を確かめた。