裏頁の連泊
砥部晴臣は二十五歳の資料修復士で、雪室村の旧旅籠から出た宿帳を補修していた。帳面は表紙から最終頁まで、宿泊日の順にきれいに埋まっている。
ただし裏表紙だけ、紙が何層にも膨らんでいた。透過光を当てると、消した日付が重なっている。村の古老は、裏表紙を「泊まり切れなかった夜の置き場」と呼んだ。
作業規程の末尾に一文がある。
《宿帳の裏表紙に、宿泊日を書いてはいけない》
晴臣は撮影番号と日付を混同しないよう、鉛筆で小さく「8/7」と書いた。付箋のつもりだった。禁忌を破ったのは、その一度だけだ。
数秒後、数字の下へ「一泊目」と浮いた。消しゴムをかけると「二泊目」になった。裏表紙の厚みが、人の呼吸のように膨らむ。
晴臣は作業を中止し、帳面を収蔵庫へ戻した。翌日は休みだったが、スマホの写真アプリが勝手に「雪室村・二泊目」というアルバムを作った。中には自宅で眠る晴臣の写真がある。撮影者は寝室の天井付近だった。
三泊目、四泊目とアルバムは増えた。晴臣自身は毎朝会社へ行っている。それでも写真の中の彼は布団から起きず、少しずつ痩せていった。
晴臣は友人に泊まり込みで見張ってもらった。友人の動画では、晴臣は確かに机で話しているのに、寝室の布団も人の形に沈んでいる。呼吸音は二か所から同じ間隔で聞こえた。収蔵庫の温湿度計は夜ごとに人一人分の水分増加を記録し、宿帳の裏表紙だけ体温と同じ三十六度台を保っている。修復報告書の作業者欄には《覚醒側》と追記された。
晴臣は眠気を感じないまま、鏡の中だけで欠伸を繰り返した。鏡像の目の下には日ごとに濃い隈が増え、こちら側の顔は逆に血色を失った。友人が肩へ触れると、体温計は人肌ではなく収蔵庫と同じ温度を示した。
七泊目の朝、電子書籍端末を開くと、読んでいた小説の栞が裏表紙へ移動していた。そこに本文にはない文字が表示される。
《八泊目。宿泊者はまだ起きていない》
同時に睡眠管理アプリが通知した。
《連続睡眠時間:168時間》
《覚醒している端末の使用者は、宿泊者本人ではありません》