見えない真珠
乙部叶恵は、母の古いコートから外した真珠ボタンを、仕立店みつばへ持っていった。乳白色の表面に細かな傷があり、裏の金具は黒ずんでいる。母は結婚式や入学式のたび、そのコートを着てこの店へ寄り、ほつれを直してもらっていた。
来月、叶恵自身が結婚式を挙げる。親族は、亡くなった母のドレスを着てほしいと言った。サイズは合う。写真映えもする。母が楽しみにしていたはずだと繰り返されると、叶恵は断れなかった。母の写真まで式場へ送られ、同じ立ち姿で撮る案も進んでいた。
けれど本当は、白いパンツスーツを注文していた。試着したとき初めて、誰かの娘ではなく、自分が式を挙げるのだと思えた。そのスーツは店の奥に完成したまま掛かっている。受け取りを延期し、式場にはまだ衣装変更を伝えていない。婚約者は好きなものを着ればいいと言ったが、その言葉に甘えることさえ、母を一人で裏切る行為のように思えた。
叶恵は真珠ボタンを差し出し、「母のドレスにつけられますか」と尋ねた。仕立店の主人はボタンを布へ当てたあと、首を横に振るでもなく、母のドレスを出そうともしなかった。代わりに、完成したパンツスーツを作業台へ広げた。
真珠を表につければ、左右の釣り合いが崩れる。主人は長さを測り、上着の内ポケットの口へ、ボタンを一つだけ縫いつけた。外からは見えない。ポケットへ指を入れたときだけ、丸い硬さに触れられる位置だった。
主人は追加料金を取らず、納品書の仕様欄へ「持込ボタン、内側」と記した。スーツを薄紙で包む前に、襟を母のドレスと同じ形へ整えることもしなかった。白い布の線を、そのまま真っすぐ畳んだ。
叶恵は店の鏡の前で上着を羽織った。ポケットの真珠に触れても、母の姿にはならなかった。それでよかった。
店を出る前、式場の担当者へ電話をかけた。「衣装を変更します」と告げる声は少し震えたが、「母の代わりに」という説明はしなかった。切ったあと、ポケットの内側で、ボタンが指先に一度だけ当たった。