記憶を失う配達人の一日札
配達人レノは、宛名のない手紙を握って薬屋へ来た。
「本当は書いてあったんです。でも、夜になるたび忘れる。読むと文字まで消える」
店主アマラが封筒を灯りへ透かすと、紙には確かに魔法の跡があった。
レノは昔、盗賊から郵便を守るため「捕まっても宛先を話せない」記憶封じを自分へかけた。だが術が壊れ、日暮れごとに配達先だけでなく、その日受けた仕事まで失うようになった。
「この手紙は、七年間届けられていません。封蝋だけは毎朝磨き、忘れるたびに新しい配達日を書き足してきました。明日の朝、古い郵便局が取り壊される。今夜こそ届けたい」
アマラは薄い薬紙を一枚出した。切手に似ているが、舌の上で溶かす薬だ。
「一日札。覚えていたい文を一つだけ書き、飲み込んでください。仕事を終えるまで、その文は忘れません」
「一つだけ?」
「欲張って二つ書くと、どちらも半分になります」
レノは羽根ペンを握った。宛名を思い出そうとすると額へ汗が浮かぶ。
アマラは封筒の魔法跡へ薬液を垂らした。消えていた文字が一瞬だけ青く戻る。
――時計塔裏、赤い扉。ミュゼへ。
レノはその一文を札へ写し、口に入れた。
薬紙が溶けると、瞳の奥へ小さな灯が点る。試しにアマラが世間話を三つし、棚の瓶を入れ替え、店の時計を一時間進めても、彼は迷わず言った。
「時計塔裏、赤い扉。ミュゼへ」
「行ってください」
「代金は配達後に」
「記憶が残ったらで結構です」
夜更け、鈴が鳴った。
レノが戻り、空になった配達鞄から古い銀貨を一枚出す。手紙の受取人が、七年間ずっと用意していた配達料だった。銀貨の表面には、待つあいだ何度も握られた跡が残っている。
「届けました。受取人は、差出人を待つのを今日でやめられるって」
彼は自分の財布からも銅貨を足した。
「これは薬代。あと、一日札を十枚ください。忘れても配達できる仕事じゃなく、忘れないで届ける仕事に戻りたい」
アマラは十枚を包み、最初の一枚だけ無料だと告げた。
レノは今度こそ宛先の書かれた鞄を背負い、夜の町へ出ていく。
扉が閉まった直後、郵便受けへ新しい手紙が落ちた。
そして、ちりん、と次の鈴が鳴った。