誰だと聞いた声

鴻上直生は野生動物の音声データを集める仕事をしていた。猟友会から渡された百々ヶ峰の記録には、鹿について奇妙な注意がある。

《人の声で鳴く鹿に「誰だ」と聞いてはいけない》

直生は、発情期の鳴き声を人声と誤認しないための戒めだと解釈した。

北斜面は禁足地で、首輪型発信器の信号だけが毎晩そこへ入る。過去のデータでは、そこへ入った個体は翌朝から人名で登録され、担当者の名前だけが台帳から消えていた。回収のため一時間だけ許可を取り、胸のレコーダーを回した。

【録音 18:42】

枝折れ。

鹿の足音。

女声「なおちゃん」

直生「……ばあちゃん?」

女声「なおちゃん」

亡くなった祖母の呼び方だった。直生は反射的に、一度だけ尋ねた。

「誰だ」

林の奥で角が木を擦った。暗視スコープには鹿の輪郭が何頭も映ったが、頭部の温度だけが人間と同じだった。全頭が直生の方を向き、口を開くたび、彼が子どものころ呼ばれていた名前を別々の声で試した。返事は直生自身の声だった。

「誰だ」

それ以降、山は無音になった。直生のレコーダーだけが録音を続け、液晶の話者数は一人から二人、三人へ増えた。最後には《話者:不明》ではなく《話者:直生以外》と表示された。発信器は地面に置かれ、首輪だけが人の体温を示していた。直生は回収せずに下山した。

音声解析ソフトは、女声も鹿声も検出しなかった。あるのは「誰だ」という二つの声だけ。波形も声紋も完全に一致している。ただし二つ目の発話時刻は、直生が言う三秒前だった。

翌朝、自分の番号から着信があった。画面の発信者名は《誰だ》。拒否すると、連絡先の同期が始まり、直生自身のプロフィール名が《誰だ》へ変わった。

同僚からのメッセージが届く。

《誰ださん、昨日のデータ共有してください》

修正しても、数秒で戻る。銀行、宅配、会社の勤怠、すべての登録名が《誰だ》になった。

帰宅すると、玄関のスマートスピーカーが反応した。

「誰ださん、おかえりなさい」

直生は電源を抜いた。

暗くなったスピーカーから、祖母の声が続けた。

「では、鴻上直生さんは、どちらさまですか」

スマートフォンの顔認証が失敗した。

《登録されていない人物です》