貸出期限のない展示
「展示品には、触れないでください」
瀬戸口夏美は、来館者だけでなく同僚の滝口壮介にも何度もそう言った。
壮介は作品へ触れるわけではない。展示ケースを調整する夏美の肩から糸くずを取り、脚立を下りるときに手を差し出し、閉館後の暗い廊下で彼女の袖をつかむ。そのたび夏美は、白い手袋をした指を仕事へ戻した。
二人は同じ美術館の学芸員だった。作品を扱う手には規則があり、転勤の多い職場で親しくなりすぎないことも、いつの間にか二人の規則になっていた。
壮介の地方分館への転勤が決まり、最後の共同展示も閉幕した。閉館後、二人は絵を梱包し、空になった壁の釘を一本ずつ外す。
最後に外したのは、向かい合う二人の横顔を描いた小品だった。会期中、壮介は「この距離なら声が届きそうですね」と言い、夏美は「絵なので届きません」と返していた。梱包布に覆われると、その会話まで片づけられるようで、夏美は留め具を締める手を止めた。
「これで、貸出品は全部ですね」
夏美が台帳を閉じると、壮介は小さな封筒を差し出した。
中には分館の年間パスポートと、来月始まる企画展の招待券。日付の下に、彼の字で《夏美と見る》と書かれている。さらに帰りの列車まで予約済みだった。
「業務視察ですか」
「そう言えば来てくれますか」
「言わなくても行きます」
夏美は招待券をバッグへしまい、自分の予定表へ翌月、翌々月、その次の展覧会まで入力した。壮介は驚いた顔で見ている。
「全部来るんですか」
「展示替えのたびに。壮介さんが嫌でなければ」
彼の名前を初めて声にすると、広い展示室へ柔らかく響いた。
二人は作業用の白手袋を外す。壮介が差し出した素手を、夏美は握った。作品を運ぶときの慎重さではなく、離さないための力で指を絡める。
警備員が消灯を知らせても、二人は手をつないだまま出口へ向かった。
展示品には、触れないでください。
けれど展示が終わった夜、触れてよい人を確かめたことで、二人は同僚という札を外した。