貸出票にない名前

市立図書館に届いた差出人不明の小包には、一冊の児童書が入っていた。背表紙のラベルは、紀世が高校時代に図書委員をしていた頃のものだ。貸出票には誰の名前もない。それでも、借りた人を紀世は知っていた。

二年生の十一月、閉館間際の図書室へ璃子が来た。制服の袖は濡れ、鞄を持っていなかった。彼女は物語を探しているのではなく、夜までいられる場所を探していた。

「家、帰らないの?」

紀世が聞くと、璃子は児童書を一冊抜いた。家を追われた子どもが、町の灯りをたどる話だった。

「これ借りる」

「カードは?」

「忘れた」

規則では貸せない。けれど璃子の手首に見えた紫色の痕を、紀世は見なかったことにできなかった。貸出票を抜かず、本を制服の下へ渡した。

「返すのは、明日じゃなくていい」

翌日、璃子は登校しなかった。担任は家庭の事情で転校したとだけ説明した。紀世は、本を無断で持ち出させたことを誰にも言えなかった。蔵書点検では紛失扱いにし、自分の小遣いで同じ本を買って棚へ置いた。

二十七歳になった紀世は司書として働いている。小包の本は、角が擦れ、何度も読まれた跡があった。最終頁に便箋が挟まっていた。

〈あの晩、駅でこの本を読んでいたら、女性の駅員さんが声をかけてくれました。保護されて、親戚の家へ行けました。名前を書かなかった貸出票が、私には逃げてもいい許可証でした〉

便箋の下には、璃子が今、児童相談所で働いていることが記されていた。返却が遅れた謝罪と、あの日の紀世へ「大人に言ってほしかった」という一文もあった。

紀世は胸が痛んだ。秘密に貸すことだけが正解ではなかった。助けを呼ぶ勇気を持てなかった自分まで、感謝の言葉で許されたことにはできない。

その夕方、閉館時刻を過ぎても帰ろうとしない制服姿の少女がいた。紀世は遠くから見守るだけにせず、机の隣へ椅子を置いた。

「本を借りなくても、ここにいていいよ。困っていることを話せる人も呼べる」

少女が顔を上げた。紀世は、貸出票に残らない親切ではなく、その子の明日へつながる手続きを始めた。