赤信号のポケット
伏見杏珠は、赤信号のたびにスマートフォンを見た。歩いている間にも通知を確かめるから、駅から家までの十二分で、画面は十回以上明るくなる。
待っているのは、三日前に送った〈また会える?〉への返事だった。既読はついている。相手は忙しいのだと考え、追いメッセージは重いと考え、友人には気にしていないふりをした。考えている間、杏珠の夜は全部、返信が来る前の仮の時間になった。
洗濯物を畳みながらも、風呂へ入る前にも、相手が返しやすい次の一文を考えた。去年買った詩集は栞を挟んだまま、机の隅で埃をかぶっている。恋をしているというより、通知音に自分の価値を預けているようだったが、それを認めるのは寂しすぎた。
大通りの信号が赤になり、杏珠はいつものようにポケットへ手を入れた。
歩行者信号から、鳥の声ではない音がした。
「赤のあいだ、手を外へ」
顔を上げる。信号の赤い人型が、こちらへ掌を見せている。
「一回だけ。ポケットから出しておいて」
杏珠は疲れているのだと思った。それでも両手を外へ出した。右手は所在なく鞄の紐をつかみ、左手は夜気に冷えた。
信号待ちは四十秒。最初の十秒で右手がむずむずし、二十秒で、見逃した通知が増えている気がした。三十秒を過ぎると、車のタイヤが雨上がりの舗装を擦る音や、隣の人が紙袋を抱え直す音が聞こえた。画面の外にも、待っている時間は流れていた。画面を見なければ、向かいの建物の二階に小さな看板があることに気づく。〈今夜の朗読会 飛び入り一名歓迎〉。窓の中では、椅子を円に並べている人たちが見えた。
大学時代、杏珠は詩を書いていた。誰にも選ばれない言葉でも、ノートの上では終わりまで書けた。就職してから一度も人に読ませていない。誰かの返事を待つより前に、自分が言葉を持っていたことを、急に思い出した。
青になった。ポケットの中でスマートフォンが震える。待っていた相手かもしれない。信号の人型はもう歩き始めている。
杏珠は横断歩道へ出ず、看板のある建物側へ曲がった。階段の下でスマートフォンを取り出し、通知を伏せたまま機内モードにする。
それから、飛び入り一名分だけ開いている扉を押した。