退去届の余白

明里は結婚を機に市外へ移り、冴子は転勤で北へ行く。

六年続いたルームシェアの終わりは、どちらかが取り残される形ではなかった。それでも退去日の朝、部屋は妙に広かった。

明里は壁の写真を一枚ずつ剥がし、冴子は剥がした跡をすぐ拭いた。

「それ、あとでまとめてやればいいのに」

「あとで、がもうないから」

思い出を残したい明里と、痕跡を消して返したい冴子は、最後までやり方が違った。

立ち会いの不動産担当者は、玄関脇の傷を見つけた。

「このへこみは入居者負担ですね」

冴子は入居時の写真を探したが、古い端末はもう処分している。明里は、傷をつけた記憶がないと言った。

そのとき、廊下に次の入居者が来た。若い女性が一人で、担当者から鍵の説明を受けている。室内へ入るなり、窓枠の黒ずみを指摘した。

「それは清掃で落ちます。現状確認書には書かなくて大丈夫です」

担当者は軽く笑った。

女性はペンを持ったまま黙った。明里と冴子は顔を見合わせた。自分たちの傷が誰のものかは証明できない。けれど、この黒ずみが今日からの傷ではないことは、二人とも知っている。

明里は担当者と揉めて新生活の初日を曇らせたくないと思った。冴子は、曖昧なまま署名するほうが後で重くなると思った。二人が互いの生き方に口を出す最後の日ではない。だからこそ、次の人の欄だけは空白にしたくなかった。

冴子が退去届を裏返した。

「余白、使っていいですか」

明里は窓枠の日付入り写真を撮る。冴子が「入居前より存在」と書き、明里が証人として署名した。次の入居者も、自分の現状確認書へ同じ文を写す。

担当者は困った顔をしたが、消せとは言えなかった。

担当者は追記を渋ったが、女性が自分のスマートフォンでも窓枠を撮ると、受領印を押した。

すべてが終わり、明里は最後の写真を壁から剥がした。そこには、入居初日に床へ座る二人と、まだ新品だった窓枠が写っていた。

「これ、持ってく?」

明里が尋ねる。

「データで送って」

冴子はそう言い、段ボールを持ち上げた。明里も反対側を持つ。

次の入居者が傷のない床を撮るシャッター音を背に、二人は同じ箱を廊下へ運び出した。