退職祝いではないケーキ
畑中都季が実家へ着くと、冷蔵庫に白いケーキが用意されていた。
チョコレートの板には〈おつかれさま これから幸せに〉と書かれている。
母は都季が会社を辞めると思っていた。結婚を機に「通勤も大変だし、家庭を優先したほうがいい」と何度も勧め、父も「相手の転勤についていける仕事にしろ」と言った。都季が今夜話したかったのは、退職ではなく異動のことだった。
食後、母がろうそくを一本立てた。
「これでやっと落ち着くわね」
「辞めないよ」
母の手が止まった。
「でも彼、来年大阪でしょう?」
「私は東京本社の新しい部署に行く。遠距離になる」
父が咳払いした。
「結婚する気がないのか」
「ある。でも、結婚のために私だけ進路を空白にしない」
都季は会社から届いた辞令をテーブルへ置いた。新規事業室、主任。母は読まず、ケーキの文字を見つめた。
「女の人は、仕事を頑張りすぎると後で苦労するのよ」
都季の前には、子どものころ使っていた苺柄のフォークが置かれていた。母は帰省するたび、それを出す。小さな手に合うよう選ばれたままの道具だった。
都季は食器棚から普通のフォークを取り、自分の前へ置いた。
「苦労するかもしれない。でも、先に辞めて避ける苦労だけがお母さんの正解でしょう」
「あなたの幸せを考えてるの」
「幸せを祝うなら、決める前に内容を聞いて」
母はケーキを切れずにいた。都季がナイフを取り、文字の〈これから〉と〈幸せに〉の間へ刃を入れた。
「これは退職祝いじゃない。異動祝いにして食べるなら、私は食べる」
父は黙って皿を三枚出した。母はしばらくして、ろうそくを抜いた。
「大阪へは、いつ会いに行くの」
「二人で決める。決まっても、毎回報告はしない」
都季は自分で切った一切れを、普通のフォークで食べた。甘すぎるクリームだったが、祝いの意味まで母に戻すつもりはなかった。
チョコレートの〈おつかれさま〉だけが皿に残った。都季はそれを母の皿へ置き、自分の仕事にはまだ使わない言葉だと思った。