醤油とうもろこしの夜

上月颯生は、タクシー会社の制服を紙袋に入れて持ってきた。

「今日、車を返しました」

 十八年握ったハンドルだった。夜の標識が二重に見えることが増え、検査で視野の欠けを指摘された。免許の更新はできても、客を乗せる仕事はやめると自分で決めた。

 娘には「ちょうど潮時だった」と伝えた。娘は夫と小さな文具店を始めたばかりで、手伝ってほしいと言っていた。颯生は「俺に店番は向かない」と断った。レジの画面も、在庫の表も分からない。運転しかしてこなかった自分を、娘の前で見せるのが怖かった。

 来月から娘夫婦の近くへ移る。だから今夜が最後だった。店には颯生しかいない。店主は皮つきのとうもろこしを網へ置き、転がしながら醤油を塗った。

 粒がぱちぱちとはぜ、焦げた醤油の匂いに、とうもろこしの青い甘さが混じった。湯気をまとった一本は、ところどころ黒く焦げ、刷毛の跡を光らせていた。

「歯、大丈夫か」

「目よりは」

 颯生が答えると、店主は初めて笑った。

 かじると粒がぷつりと潰れ、熱い甘みが口に広がった。まっすぐ食べたつもりでも、歯形は少し斜めに残る。

 颯生は娘から届いた店内写真を開いた。カウンターの端に、誰も座っていない丸椅子がある。

 明日の朝、「レジと在庫の表を教えてくれ。週三日なら手伝える」と送る。できないことは多い。客に道を聞かれたら、車で走った町の話ばかりするかもしれない。それでも、潮時という言葉で自分を畳むのはやめる。

颯生は住所を聞かれれば最短経路を三つ言えたし、酔った客の忘れ物を翌朝までに届けたこともある。だが、それを仕事の外で役立つ力だとは考えたことがなかった。娘の店では、配達の順番や雨の日の客足を読む役に立つかもしれない。役に立たなくても、教わる側から始めればいい。娘の夫に頭を下げるのは少し癪だが、その癪まで含めて明日持っていく。

 最後までかじった芯は硬く残った。指には醤油の香りがつき、歯の間には甘い粒の熱がしばらく残った。