銀杏の殻の薄い場所
得意先へ送った見積書の桁が、一つ多かった。
送信直後に気づいたのに、僕は訂正版を出さなかった。先方が見落とせば、なかったことにできると思った。だが夕方、上司から「先方が明朝、確認したいそうだ」と転送が来た。説明を求められれば、入力ミスより、黙っていた時間のほうが問題になる。何度も『まだ正式注文ではない』と言い訳を考えたが、見積書には僕の名前と送信時刻がはっきり残っていた。
帰宅途中、初めて入った居酒屋には、背広の常連が一人いた。ネクタイをきちんと畳み、鞄の上へ置いている。店主が「銀杏、今日はいいよ」と言うと、僕は反射的にそれを頼んだ。
殻つきの銀杏が小鍋で煎られ、からからと乾いた音を立てる。殻の焦げる匂いの奥から、青くほろ苦い香りが出てきた。皿へ移された実は熱く、指で触れるたびに転がった。
割り方が分からず困っていると、奥の常連が黙って小さな金具を僕の前へ滑らせた。銀杏割りだった。礼を言うと、男は自分の湯呑みへ視線を戻した。
最初の一つを力任せに挟み、実まで潰した。店主が殻を一つ取り、筋のような線を指した。
「ここが薄い」
次はそこへ金具を当てた。小さく、ぱき、と鳴り、殻だけが開いた。中の実は翡翠色で、塩を少しまとうと、苦みのあとに甘さが来た。
見積書にも、薄い場所はある。数字を誤った経緯と、気づいた時刻。そこを自分から開けば、少なくとも嘘を重ねずに済む。
僕は上司へのメールを作った。『送信直後に誤りに気づきましたが、報告をためらいました。明朝八時半に訂正版と経緯を持参します』。送る前に何度も読み、最後は画面を伏せて送信ボタンを押した。
処分されるかもしれない。担当を外されるかもしれない。殻は割れても、中身まで無傷とは限らない。
常連は銀杏割りを受け取り、布で一度拭いてから店主へ返した。最後の一粒は少し冷め、苦みがはっきりしていた。それでも噛み砕くと、熱の残った中心から、青い甘さがゆっくり出てきた。