録音ブースの鍵
砂金原紀親は、夜久野伶緒が押入れで本を読むのを嫌った。
「独り言がうるさい。専業主婦が声を出して何になる。誰のおかげで飯が食えてるんだ」
押入れには毛布が張られ、小さなマイクが置いてあった。伶緒は、視覚障害者向けの朗読ボランティアから始め、やがてオーディオブックの仕事を請けていた。
紀親は、無償の読み聞かせだと思い込んでいた。
大手出版社が音声事業へ参入し、紀親の勤務する広告会社へ宣伝を依頼した。制作発表会で、新レーベルの専属ナレーター兼演出家が紹介される。
壇上に立ったのは伶緒だった。
彼女の声で配信された作品は、匿名名義のまま累計一千万回再生されていた。登場人物を演じ分け、方言監修や録音指導まで行う。出版社は三年間の独占契約と、自社スタジオの制作責任者就任を提示していた。
契約総額は一億五千万円。印税は別だった。
紀親は同僚へ言った。
「妻は家で暇だからできたんです。生活を支えた僕にも権利が――」
会場のスピーカーから、伶緒の試験録音が流れた。
『その声、金になるわけないだろ』
『俺が帰るまでに夕飯を作れ』
紀親の声だった。伶緒は発音練習のため、自分の声を常時録音しており、彼の発言も日時付きで残っていた。
出版社の担当者は、紀親が妻の未公開音源を広告企画へ無断添付したことも指摘した。彼は案件から外され、社内調査を受ける。
帰宅すると、押入れは空だった。机には離婚届と、新スタジオの住所がある。
「声の仕事なんて、流行が終われば消える」
伶緒は録音ブースの鍵を掌に載せた。
「消えないように、私は自分の名前で契約した。あなたの給料がなくても、生活できるようにもした」
新居の費用、保険、年金、すべて自分の口座から支払い済みだった。
出版社から第一作の納品承認が届く。最後の一文は、伶緒自身が演出したものだった。
〈扉の向こうで、彼女は初めて自分の声を聞いた〉
スタジオの鍵が渡され、伶緒が離婚届を紀親へ差し出した瞬間、独り言と消された声は一千万の耳へ届き、夫の命令だけが録音ブースの外へ締め出された。