閉店前の甘口
芽衣子がその喫茶店へ入ったのは、閉店の三十分前だった。店そのものも、今夜で終わる。入口の紙には、四十二年間ありがとうございました、と書いてあった。
彼との最初のデートも、別れ話の前の最後の食事も、この店だった。二人ともいつも甘口カレーを頼んだ。星形のにんじんが一つだけのっていて、彼は毎回「当たり」と言って自分の皿へ移した。芽衣子は別に惜しくなかった。星より、そのやり取りが好きだった。
半年前に別れてから、一度も来られなかった。今夜ここがなくなると知り、仕事帰りに駆け込んだ。
カウンターの中の店主は、芽衣子を見て一度だけ奥を確かめた。
「今日は、お一つで」
芽衣子がうなずくと、それ以上は聞かなかった。
運ばれたカレーは、りんごの甘い香りがした。中央には星形のにんじんが一つ。
誰にも言えない悩みは、彼を忘れられないことではなかった。二人を覚えている場所がなくなったら、幸せだった自分まで証明できなくなる気がすることだった。写真は消せる。メッセージも消える。けれど店主が「あの二人」と覚えていてくれる限り、あの時間は本当にあったと思えた。
芽衣子は星を避けて食べた。皿の端から、ゆっくり。半分になっても星は中央に残った。店内では椅子を上げる音がし、時計の針が閉店へ近づいた。
最後の二口になった。芽衣子は星をスプーンにのせた。彼の皿へ運ぶ動作が、手首にまだ残っていた。向かいには誰もいない。
一度、皿へ戻す。次に、残ったごはんとカレーを少しずつすくい、その上へ星を置いた。甘いソースの中で、にんじんは思ったより柔らかく崩れた。
食べ終えると、店主が水を置いた。芽衣子は何も説明せず、空の皿をカウンターの中央へ押した。
場所がなくなっても、食べたことまではなくならない。星を渡す相手がいなくても、当たりだった夜は自分の中に残る。
店を出る前、芽衣子は振り返らなかった。舌に残った甘さだけを連れて、シャッターの下りる音の外へ出た。