閉店後の一名様
文化祭の喫茶店が閉店してから、常盤紗月は初めて客席へ座った。
三年一組の教室には、片づけ途中の椅子と、剥がしかけたメニュー表が残っている。紗月は朝からずっと給仕係で、水を運び、注文を間違え、客の写真を撮っていた。自分たちの店なのに、飲み物を一口も飲んでいない。
「閉店です」
カウンター役の机の向こうから、鶴橋征士郎が言った。
「知ってる」
「お客様はお帰りください」
「一名、予約してます」
「予約表はありません」
「今入れた」
征士郎はため息をつき、外しかけたエプロンを結び直した。
「ご注文は」
「おすすめ」
「全部売り切れ」
「店員の裁量で」
「面倒な客だな」
冷蔵庫には牛乳が少し、コーヒーの原液が底に残っていた。生クリームは溶け、氷もほとんどない。
征士郎は紙コップへ全部入れた。見本写真とは似ても似つかない、薄い色の飲み物ができた。
「本日の残り物ラテです」
「名前が悪い」
「文化祭の終わり味」
「もっと悪い」
紗月は一口飲んだ。ぬるく、甘すぎた。
「まずい」
「正直なお客様には退店をお願いします」
「でも、おかわり」
「材料ない」
「じゃあ半分飲んで」
紗月は紙コップを差し出した。
征士郎は受け取らない。
二人は同じクラスになって三年目だった。委員会も席も近いのに、話すのは必要なことばかり。卒業後の進路は別々で、文化祭が終われば、次に一緒に何かを作る予定はなかった。
「間接になる」と征士郎が言う。
「今さら?」
「今まで一度もない」
「じゃあ初めて」
「閉店後に?」
「営業時間中は忙しかったから」
征士郎は紙コップを受け取り、飲んだ。
「まずい」
「作った人が言う?」
「牛乳が多い」
「私、牛乳好き」
「知ってる」
「何で」
「一年のとき、毎日給食の牛乳二本飲んでた」
「見てたんだ」
「余ったのをもらってただけだろ」
教室の外から、早く片づけろと声が飛んだ。
紗月は空の紙コップをメニュー表の裏へ置き、赤ペンで『完売』と書いた。
最後の客一名。店員一名。売上はゼロ。
それでも紗月にとって、文化祭で一番おいしかったものは、閉店後に半分ずつ飲んだ、名前のない一杯だった。