零円の食卓
鴇田成海は、家計簿アプリの導入支援をする会計士だった。二十六歳。実家でも現金帳を廃止しようと、祖母が五十年つけた家計簿を読み込んだ。
各月の最終頁には、金額より大きな字で同じ禁忌がある。
《家計簿に、食費〇円の日を作ってはいけない》
戦時中、食べ物がなかった日にも一円だけ記帳されている。祖母は「何か食べた者を、家が覚えておくため」と説明した。〇円にされた人は、翌月の家族人数から減ったという。
昭和二十年八月の頁には、米も芋も尽きた日が七日続く。それでも食費は毎日一円で、家族人数は五人のままだった。八日目だけ誰かが〇と書き、翌頁の集合写真から次男の姿と名前が切り取られている。
成海は迷信を、栄養管理の知恵だと理解した。口座とレシートを連携すると、一日だけ食費が二重計上された。昼食を会社の経費にした日で、個人負担は本当は〇円だった。
帳尻を合わせるため、成海は一度だけ食費欄へ「0」と入力した。
アプリが《本日の喫食者を削除します》と確認した。画面には家族四人の顔が並び、成海の枠だけ食事写真ではなく、仏壇の位牌を自動で切り抜いた画像に置き換わっていた。成海は金額の意味だと思い、決定を押した。
翌朝、冷蔵庫の顔認識カメラが成海だけを「人物以外」と判定した。社員食堂ではICカードをかざしても《利用者が存在しません》と出る。コンビニでおにぎりを買うと、レシートの商品名が《供物・一名分》に変わった。
母へ連絡すると、家族チャットから成海の過去発言がすべて消えていた。母は電話に出たが、「鴇田さんのお宅ですか」と尋ねる成海の声を、間違い電話だと思った。
実家へ戻ると、夕食は三人分。自分の椅子も茶碗もあるのに、家族は誰も成海を見ない。試しに味噌汁を飲むと、祖母の家計簿で今日の食費が一円増えた。
スマートフォンに家計簿アプリから通知が来た。
《未登録の人物が食事をしています》
《世帯へ追加しますか》
成海が「追加」を押すと、続柄の選択肢は一つしかなかった。
《供養対象》
母が空の椅子へ向かい、いつもの調子で言った。
「冷める前に食べなさい、成海」
その声だけは、成海ではなく仏壇へ向けられていた。