青いコップを伏せる
洗面台には、青いプラスチックのコップが置かれていた。
側面のイルカは半分剥げ、底には千紘の名前が油性ペンで書かれている。隣には、未開封の歯ブラシ。子どものころと同じ赤色だった。
「新しいの、出しておいたから」
母が背後から鏡越しに言った。
「持ってきてるよ」
「置いておけばいいじゃない。また帰ってくるんだし」
千紘は自分の旅行用歯ブラシをポーチから出した。白い柄で、名前はない。
帰省のたび、母は少しずつ千紘の居場所を元に戻そうとした。タオルを一枚、部屋着を一組、化粧水を一本。置いていけば便利でしょう、と言われるたびに、千紘は断りきれず、次に来たときにはそれが「あなたのもの」になっていた。
「これは開けない」
赤い歯ブラシを母へ差し出す。
「どうして。百円もしないのよ」
「値段じゃなくて、置いておかないって決めたから」
母は受け取らず、洗濯籠を抱え直した。「ここを自分の家だと思ってないのね」
千紘は蛇口をひねり、青いコップを洗った。水を入れると、細かな傷が白く浮かぶ。
「今の家は、向こうの部屋」
「じゃあ、ここは何?」
「お母さんたちの家。私は会いに来る」
言葉にすると、冷たい線を引いたように聞こえた。けれど線がなければ、どこまでが誰の暮らしか分からなくなる。
千紘はコップの水を捨て、洗面台の端に伏せた。未開封の歯ブラシは鏡の下の収納へ戻す。
母は「好きにしなさい」と言って洗面所を出た。怒っている声だった。
翌朝、千紘が顔を洗うと、青いコップは伏せたままだった。その横に、客用の白い紙コップが一つ置かれている。
千紘は紙コップを使わず、自分の両手で水をすくった。帰る前、旅行用歯ブラシを水気の残らないよう拭き、ポーチへ入れる。
玄関で靴を履くと、母が『次は白い紙コップもいらない?』と尋ねた。千紘は少し考え、『お茶を飲むコップは借りたい。でも、私専用は作らなくていい』と答えた。母は腑に落ちない顔で、それでも赤い歯ブラシを持って追いかけてはこなかった。
洗面台には何も残さなかった。青いコップだけが、誰の口も待たず、静かに乾いていた。