靴修理店の客
靴修理店を開けると、最初の客は茶トラの猫だった。
職人の礼司がシャッターを上げる午前九時、猫は店先のマットへ座る。名は知らないので「一番」と呼んでいる。
一番は革靴の匂いが好きらしい。扉を開けると棚の下へ入り、接着剤の蓋を開ける前には必ず外へ出される。
ある朝、常連の加代乃が赤いパンプスを持ってきた。若い頃に買ったもので、踵の革が剥がれている。
「もう履かないけど、捨てるのもね」
礼司が預かると、一番が箱を嗅いだ。古い革に、香水と押入れの匂いが染みている。
修理は必要ないほど傷みが少なかった。礼司は革を磨き、踵だけ貼り直した。
受取の日、加代乃は店でパンプスへ履き替えた。一番が足元を一周する。
「覚えてるのかしら。この靴で、昔ここを歩いたから」
猫が生まれる前の話だ。それでも加代乃は嬉しそうだった。
外を少し歩き、戻ってくる。赤い靴は商店街の石畳で乾いた音を立てた。
「やっぱり家に飾るわ」
礼司は箱へ薄紙を敷いた。一番が入ろうとするので、抱き上げてどかす。初めて触った猫の腹は思ったより温かかった。
翌朝、一番はまたマットにいた。礼司は赤いパンプスを磨いた布を小さく畳み、猫の座る場所へ敷いた。
革用クリームの甘い匂いが残る布の上で、一番は前脚をしまった。店に人の客が来るまで、礼司は金槌を軽く鳴らし、猫は目を閉じて聞いていた。
加代乃から後日、赤い靴を飾った写真が届いた。玄関の棚で、若い頃の夫婦写真の隣に置かれている。一番は写真を嗅ぎ、興味を失って布へ戻った。礼司はその布へ革用クリームを足さず、匂いが薄れるままにした。夏になれば猫は冷たい石の上へ移るだろう。けれど雨の朝や風の冷たい日には、また赤い靴の香りを探して座る。金槌の音が始まると、一番は前脚の間へ鼻を埋め、店の開店を誰より静かに知らせた。
昼前、最初の人客が革鞄を持ってきた。一番は目を開け、布を譲らず座り続ける。礼司は猫を跨いで受け取り、店には新しい革と古い赤靴の匂いが並んだ。