音のない電話

母からの着信は、夜九時十三分にあった。

ちょうど玄関で靴を脱ぎ、片方の足だけ靴下になったところだった。画面に「母」と出て、着信音がワンルームいっぱいに鳴る。私は鞄を肩にかけたまま、スマートフォンを見ていた。

出ればいい。用事はたぶんない。最近どう、仕事は忙しい、ちゃんと食べてる。いつもの三つを話せば十分だ。

けれどその日は、会社で朝から説明をし、昼休みに後輩の相談を聞き、帰り際には取引先へ謝った。声を出すことだけで一日分の力を使い切っていた。

一人暮らしの夜は、黙っていられることが救いになる。玄関を閉めれば、返事も相づちも正しい声の高さもいらない。その静けさを欲しがることと、家族を大切に思うことは、同時に成立しないような気がしていた。

着信が切れた。すぐに罪悪感が残った。

私はコートを床に置き、冷蔵庫から麦茶を出した。コップに注ぐ音が、やけに大きい。電子レンジへ昨夜のご飯を入れたところで、留守番電話の通知がついた。

再生すると、母の声は思ったより短かった。

「急ぎじゃないよ。そっち、寒いってニュースで見たから。靴下履いて寝なさい」

それだけだった。後ろでテレビの音がして、父らしい咳払いが入り、録音は終わった。

私はまだ片方しか履いていない靴下を見た。笑うほどではないのに、息が少しだけほどけた。

電話をかけ直す代わりに、メッセージを開く。

『今日は声を出す元気がないので、明日電話します。靴下は今履きました』

送ったあと、丁寧すぎると思った。仕事のメールみたいだ。消せないまま見ていると、母から親指を立てたスタンプが一つ届いた。

会話は始まらなかった。親指の絵だけが、今夜はそれ以上話さなくていいという小さな許可証に見えた。明日になっても、電話できないかもしれない。実家との距離も、今夜の疲れも、そのままだ。

私はもう片方の靴下を履き、温まったご飯に海苔をちぎってのせた。留守番電話の赤い印は消さなかった。声を聞きたい日まで、そこに置いておくことにした。