風呂場の銀色

 三倉伊織は、父の浴室に手すりを付けるため、日曜の朝からタイルへ印をつけていた。泰造は浴室の外で腕を組み、露骨に不機嫌だった。

「要らん」

「先週、転んだ」

「滑っただけだ」

「転ぶ人は全員そう言う」

「年寄り扱いするな」

 伊織は水平器を当てた。父は昔、伊織が作った棚を「危ない」と勝手に外した。大学でプロダクトデザインを学ぶと告げたときも、「役に立つ物は職人が作る」と笑った。以来、作品を見せていない。

「高さ、ここでいい?」

「好きにしろ」

「使う人の意見が要る」

「使わない」

「じゃあ俺の高さで付ける」

 ドリルがタイルに食いついた。甲高い音に泰造が眉をしかめる。三つ目の穴で刃が滑り、釉薬が小さく欠けた。

「下手だな」

「誰かに似た」

「俺はタイルを割らん」

「人の進路は割ったけどな」

 音が止まった浴室で、水滴だけが落ちた。泰造は欠けた箇所を親指でなぞった。

「割れたなら、補修しろ」

「それだけ?」

「今さら新品にはならん」

 謝ってはいない。伊織も許してはいない。それでも父が目を逸らさなかったので、伊織は補修剤を練った。

 二人で金具を押さえ、ねじを締めた。泰造の手はまだ力が強く、伊織の指定トルクを越えそうになる。

「締めすぎ」

「緩いよりいい」

「壊れる」

「じゃあ止めろ」

「今止めてる」

 銀色の手すりは、古い浴室でひどく新しかった。泰造は最後まで試そうとせず、伊織がぶら下がって荷重を確認した。

 片づけを終え、伊織が玄関へ向かう。背後で浴室の戸が開く音がした。振り返ると、泰造が片足を入れ、何でもない顔で手すりを握っている。

「どう?」

「冷たい」

「金属だからな」

 泰造は手を離さず、もう片方の手で古いタオル掛けを外した。低い位置に新しいフックを二つ付ける。一本には自分の白いタオル。もう一本には、伊織が汗を拭いた青いタオルを掛けた。

「次は廊下だ」

「要らないんじゃなかったの」

「風呂場には要らん。廊下は別だ」

 伊織は工具箱を閉じず、玄関脇へ置いたままにした。