風呂蓋の裏側
昂平は、父が退院する前日に、真砂と浴室を掃除した。
脳梗塞は軽かったが、右手に少し麻痺が残るらしい。再婚してまだ半年の真砂は、介護用品のカタログに付箋を貼り、昂平はその几帳面さが苦手だった。
「滑り止めはここ。手すりは来週」
「風呂椅子、高すぎませんか」
「立ち上がりやすいって」
「父さん、足短いから」
真砂が吹き出した。昂平もつられて笑い、すぐ黙った。父の前で母の話をしないよう気を遣うのと同じくらい、この人の前で笑うのにも許可が要る気がしていた。
二人で風呂蓋を持ち上げると、裏側に黒い黴が広がっていた。真砂が漂白剤を吹き、昂平がブラシでこする。頑固な汚れは落ちず、二人とも袖を濡らした。漂白剤の匂いで目が痛み、交代で窓を開けた。真砂が磨き残した場所を昂平がこすり、昂平が流し忘れた泡を真砂が洗った。
「新しいのを買えばいい」
昂平が言うと、真砂は首を振った。
「この蓋、あなたのお父さんが前の家から持ってきたの。捨てていいか、聞けなくて」
母と暮らしていた頃からあったものだ。端に、子どもの昂平が貼った魚のシールが一片残っている。真砂はそれを剥がさないよう、周りだけを磨いていた。
昂平は漂白剤を洗い流し、魚の輪郭を指でなぞった。
「蓋は替えましょう。シールだけ切って、残せばいい」
「そんなことできる?」
「工具持ってきます」
二人は樹脂用の鋸で端を細く切り、魚の部分を小さな板にした。真砂はそこへ滑り止めを貼り、浴室の棚に立てかけた。役には立たない。ただ、捨てなくて済んだ。
掃除を終えると、真砂は新しいタオルを二枚並べた。父の名札がついたものと、何も書かれていないもの。
「明日、付き添いお願いできる?」
「午前だけなら」
「泊まる?」
「必要なら」
真砂は客用布団の場所を教えず、廊下の奥の部屋を開けた。昂平が昔使っていた本棚と、充電済みの延長コードがある。
「お父さんが、ここは触るなって」
昂平は濡れた袖を着替えるため、何も書かれていないタオルを取った。使ったあと、洗濯籠ではなく自分の部屋の椅子に掛けた。
明日の朝も使うつもりだった。