飲まない人の湯のみ

沢渡倫緒が実家の食卓につくと、父の湯のみがいつもの席に置かれていた。

父が亡くなって一年、母は夕食のたび四人分を並べる。母、倫緒、弟、そして父。弟は仕事で来られない夜も、父の湯のみだけは欠かさない。

「今日は三人じゃなくて二人だよ」

倫緒が言うと、母は急須を持ったまま固まった。

「お父さんの席をなくしたいの?」

湯のみは濃い茶色で、縁が欠けている。父は倫緒が仕事を辞めた夜、この席から「根性がない」と言った。最後まで仲直りはしなかった。それでも母にとっては、家族を四人の形へ保つ器だった。

父の湯のみには、倫緒が小学生のとき描いた歪な鳥が焼きつけられている。父は「下手だな」と笑いながら毎日使った。優しかった記憶と傷ついた記憶が、同じ欠けた縁に重なっている。どちらかだけを本物に選ぶことはできなかった。

母は父の分の茶を毎晩流しへ捨てる。その音を聞くたび、倫緒には自分が父の代わりに座る順番を待たれているように思えた。

今夜、倫緒は急須を母から受け取らず、自分の湯のみだけを持ち上げた。父の分を下げることと、父がしていた役目を娘が継ぐことは別だと、手の動きで示した。

倫緒は父の湯のみを手に取った。

「なくすんじゃない。食卓から下げるだけ」

「形見なのに」

「形見なら、飲まない人の前へ毎日置かなくてもいい」

母の目に涙が浮かんだ。倫緒は湯のみを捨てる袋へは入れず、戸棚の下段へ置いた。母が残したいなら、母の場所で残せばいい。ただし、倫緒が来るたび父の席を演じる食卓にはしない。

母は「薄情ね」と言ったあと、二人分の茶を注いだ。

倫緒は返事をせず、父の椅子ではなく、窓側の空いている席へ移った。昔は弟の席だったが、今夜は誰の役名もついていない。

食事の途中、母が「この煮物、味が濃い?」と尋ねた。

「少し。でも食べる」

父ならどう言ったかを、二人とも口にしなかった。

食後、母は戸棚を開け、湯のみを一度見た。捨てず、食卓へも戻さず、そのまま扉を閉じた。

テーブルには二つの湯のみだけが残った。空いた場所は寂しかったが、誰かの不在を娘が埋める席にはならなかった。